母がいっしょに食べようといって鯛の刺身を冷蔵庫から取り出す。きっとスーパーでこの刺身を見たときに、わたしに食べさせようと思って手をのばしたのだろう、自分が食べたいのではなく、と思った。ほんとうは自分が食べたいだけで、それをだれかに食べさせたいという口実で買ったといった人間的な解釈がほしかったのに、ここには動物的な、子どもに餌を与えるといった純粋なメカニズムに近いものが機能しただけだった。いざ食べ始めると(案の定)母は、自分は一切れでいいと言い出す。わたしは満腹だったのである。 ここ二日ほど母の作った赤飯を食べている。母はむかしから赤飯が好きだったのではないかと突然気づく。むかしというのは、もしかしたら子供の頃からということで、子供の頃から変わらずに持ち続けるものはひとつの奇蹟というほかなく、そこには奇蹟的な出会いがあったからにほかならない。たかが赤飯にすぎないものとの奇蹟的な出会いを思うと