タグ

思想に関するnamgenのブックマーク (16)

  • http://swjc.saga-wjc.ac.jp/~nagasawa/profile/works/nagasawaworks-hashikawa1.htm

  • 坂のある非風景 書かれない詩が書かれている詩を凌駕する

    微動だにしないことで消耗を強いられることがある。「停滞」は無気力、無関心な傍観者が演じるんじゃなくて、積極的な消耗戦の中にある。というわけで目的をもって作品を書きつづけるという消耗が「停滞」を意味してしまうという話だ。何もしない停滞が救われるのはその停滞について否が応でも認識させられるからで、いつでも問題は、何もしない停滞の苦痛からみごとに逃避しおおせたあげく手に入れる快楽的な停滞の方だった。 停滞は充実の中にしかない。充実した創作活動にある停滞をいかにして認識するか。その認識が作品を破綻させる、その破綻にいかにして耐えてゆくかといった場所だけがあたらしい詩的形式を生む場所のはずだった。すでに新しい詩的形式をうしなって半世紀になろうとしている。 その知人の叔母にあたる方は被爆者だったが、昨年亡くなったその葬式に行くことができなかったと語った。叔母はエホバの証人だった。エホバの証人は葬儀を行

  • 博多行き - Rowing to another dawn.

  • http://www.momonoge.com/bootlogue/004.html

    namgen
    namgen 2007/06/02
    ついに出たか。やむ得ないが値段がガクガクブルブル。
  • 言語の実像を作り直す (3) - 現在思想のために

    4 正統的言語探究が描出してきた言語イメージに拮抗しうる、ほとんど唯一の言語の像を提出した者の代表格として、メルロ=ポンティ(M. Merleau-Ponty)をあげることができます。 彼によれば、正しく概念化された限りでの発話――彼はそれを「語る発話」(parole parlante)、ときには「原初的発話」(parole originelle)とも呼んでいますが――は、<仕草>(geste)のようなものである、と言います。彼が言うgesteというものは、表情ないし表情をはらんだ身体の動きのことです。言い換えるなら、彼は言語という記号過程を身体の振る舞いになぞらえるわけです。あるいは、言語は所作の類比(analogie)だと言うのです。こうした異色の言語理解を、今後、「言語と所作の類比理論」(簡単には「類比理論」)と呼ぶことにしましょう。 先に確かめたように、言語はモノの一面をもちます。

    言語の実像を作り直す (3) - 現在思想のために
  • はじまりの文字のために―文字の記号学 - 現在思想のために

    文字の記号学のために、かつて発表した文章の骨子を補いつつここに掲げておきたい。原文は、菅野盾樹『恣意性の神話』、勁草書房 に収められている。 1 現代社会では多くの人々が少なくとも二つの言語の形態を用いている。自国語――例えば日語――だけしか解さない人でも、この意味では歴としたバイリンガルなのだ。すなわち大抵の人が、話し言葉つまりスピーキング(speaking)と書き言葉つまりライティング(writing)という「互いに独立した」言語を遣っている。ちなみに、これらの横文字から分かるように、言語とは基的に身体の所作である。 2 それにもかかわらず、ライティング=文字を書く行為は、言語ではないという説が唱えられてきた。古典的な事例はソシュールである。彼によると、文字(écriture)は話し言葉を記録にとどめる手段にすぎない。現代でこうした立場を打ち出したのは、行動主義言語学を代表するレナ

    はじまりの文字のために―文字の記号学 - 現在思想のために
  • ユクスキュル・ルネッサンス (6) - 現在思想のために

    <環世界論>における<内部存在論> ユクスキュルはときに誤解されている。確かに生物学に<主体>の概念を導入したことは彼の功績のひとつである。従前の生物学が<機械論>という枠組みを採用していた点は、生物個体を全体として機械仕掛けとして説明するのが生物学の標準であったことが雄弁に物語っている。 例えば、単一の反射弓ですべての振る舞いを説明できるような仮想的動物を想像してみよう。(ユクスキュルは『生物から見た世界』岩波文庫、において、ゾウリムシをたった一つの機能環で生きている生物と見なしている。ゾウリムシは、障害物を回避し、物=腐敗菌に接近するという、プラスとマイナスとを一対とする振る舞いしか示さないからである。ここでの仮想的動物をゾウリムシのたぐいに比定してよい。)外部からこの動物の受容器に刺激がもたらされ、それが電気的パルスに変換され神経核を通過し、実行器に至ってそれを機能させる――ここに

  • ユクスキュル・ルネッサンス (5) - 現在思想のために

    環世界と世界――相対主義との関連で ユクスキュルの環世界論が、哲学的視点からいって<相対主義>――さしあたり、認識の相対主義と実在に関する相対主義――を招来するのではないかという懸念は、<環世界>の存立がおのおのの生物種の存在構造によって規定されているからである。この点をいま一度確認しておこう。 大きくいえば、自然に内在する構成計画(Bauplan)が環世界を創出するとユクスキュルは考える。しかし個別的な環世界は、知覚=行動系としての生物の営みに生成の根拠を有している。こうした事態を明瞭に示すのが、ユクスキュルの<機能環>という考え方である。(この概念は、当面は<相対主義>との関連で取り上げられているが、じつは<内部存在論>との関連でも重要な意義を有する。この点は後述の予定。) 機能環について、ユクスキュルはおおむね次のような言い方をしている。「あらゆる動物主体は、やっとこが二の腕で物を

    ユクスキュル・ルネッサンス (5) - 現在思想のために
  • ユクスキュル・ルネッサンス (4) - 現在思想のために

    文献①〔「環世界論の研究」(思索社版『生物から見た世界』に所収)〕において、トゥーレ・フォン・ユクスキュル(T.v.Uと略す)は、環世界論の意義を何よりも<主体>概念を自然研究に導入した点に見出していた。彼の議論を手がかりにして、環世界論についての考察を深める努力をしてみたい。 環世界論の準全体論的性格 彼によれば、物理学に代表されるいわゆる精密科学は20世紀に著しい発達を見たが、その成果は生命科学と十分に関連づけられていないという。この状況は50数年前にヤーコプ・フォン・ユクスキュルが<環世界論>の基礎を築いた当時といささかも変わるところがない(①が執筆されたのは、1970年頃である)という。T.v.Uは、環世界論にこの関連づけの嚆矢を見出す。その際、重要な概念としてクローズアップされるのが、<主体>としての生活体という見地である。この点を少し詳しく述べてみよう。 環世界論にとっての<主

    ユクスキュル・ルネッサンス (4) - 現在思想のために
  • ユクスキュル・ルネッサンス (1) - 現在思想のために

    いま授業でヤーコプ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexküll)を読んでいる。テキストとして遣っているのは、『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳、岩波文、2005)。これは、かつて思索社から刊行された『生物から見た世界』(日高敏隆・野田保之訳、思索社、1973)の前半部を改訳したものである。事実、新しい訳のほうが数段読みやすいし正確な訳となっている。 ただ残念なのは、一つに、旧版の後半部をなす「意味の理論」が収載されていないこと、二つに、古いテキストでカラーの挿絵だったものがモノクロになったこと、三つには、古い版ではポルトマン(Portman)とトゥーレン・フォン・ユクスキュル(Thure von Uexküll )の解説が併載されていたのだが、今回の文庫版ではこれらが割愛されたことである。 『意味の理論』(Bedeutungslehre)はぜひとも新たに訳出して欲しか

    ユクスキュル・ルネッサンス (1) - 現在思想のために
  • http://dia.blog.ocn.ne.jp/shima/2007/02/post_19f2.html

  • ユクスキュル・ルネッサンス (2) - 現在思想のために

    環世界論における<主体> <主体>概念を生物学に導入した功績は、確かにユクスキュルに帰せられるべきものである。しかし問題は、ユクスキュルが、古典的な<主体>とは一線を劃した<主体>概念を新しくどのように構想したか、それを詳らかにすることだろう。環境に属する生命体の研究という意味での<生物学>を構築するためには、理論構成の要素として<主体>概念が不可欠であるという主張は、確かに目覚しい意義をもつだろう。しかし思想史における<主体>概念の悪名高い多義性とその歴史的変遷については、初学者でも知っている。生物学にとってなぜそしてどのような意味で<主体>が必要なのか――この点を明らかにしなくてはならない。 前述のように、生命体としての人間が生きている<主体>は、認識活動がそのまま生命活動と重なり合うような形で把握されなくてはならない。しかも、人間にあっては、<認識>の様態が他の生命体とは異質な面をそ

  • イメージ図式の哲学的意義 (1) 身心問題を回避する - 現在思想のために

    比喩の認知言語学が我が国に紹介されたのは、レイコフ(George Lakoff)とジョンソンの共著『生は比喩で営まれている』(Metaphors We Live By, 1980 )の翻訳によってであった(邦訳『レトリックと人生』(渡部昇一ほか訳)、大修館書店、1986)。著者の一人レイコフは初めチョムスキー派の一人として研究のスタートを切った。その後、チョムスキー派の生成文法に異を唱え<生成意味論>の提唱によってこの派と袂を分った人物である。この経緯を知る人は多いだろう。(近年の彼の動向については別の機会に述べたいとおもう。) もう一人の著者ジョンソン(Mark Johnson)は、カント、ジョン・デューイ、倫理学などに関する哲学的研究を続けながら、メルロ=ポンティの影響下で身体性の存在論を掘り下げることになった。その成果の一端が上記の比喩の認知意味論的研究にほかならない。以下で考察する

    イメージ図式の哲学的意義 (1) 身心問題を回避する - 現在思想のために
  • ララビアータ:自由人と奴隷 - livedoor Blog(ブログ)

    「立身出世主義者の巣窟」の記事で、私が「われわれギリシア人」と語ったことに対してコメントをお寄せくださった方が、古代ギリシアの奴隷制度に言及して、平等をたてまえとする「左翼」が、支配階級の言説に平気で加担するのは自己撞着だという主旨の批判をお書きになっている。ここには、あいまいにすべきでない問題があるので、少し詳しく論じてみたい。 もとより「左翼」と言っても様々であろうから、一様に平等にコミットしているかどうか決めることはむづかしい。私自身は、いかなる規準で「左翼」かどうかを語るのかについては、すでに論じたのでここでは論じないが、以下の論点は、何ゆえ左翼が知的優越性を主張できるかという点に深いかかわりがある。 しかし「われわれ自由人」と同義で語られている「われわれギリシア人」は、そのような文脈で語られているのではない。「自由人」と「奴隷」との間にある差異は、単に身分的・階級的なものではない

  • ハイデッガーの二つの顔 (III) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER - フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

    これまで述べてきたハイデッガーの明るい面と暗い面の関係はどう考えたらよいのだろうか。彼は暴力と死の教義を唱えたナチそのものだとするエマニュエル・フェイ Emmanuel Faye のインタビューと、彼は不等に非難されているとするハイデッガーの擁護者フランソワ・フェディエ François Fédier の著作からの引用が Le Point には掲載されている。 両者の主張を聞いてみると、同様の状況は日でも見られる。フェイによると、ハイデッガーはガス室についてはほとんど語っていない。強制収容所についてにおわすような発言をする時もユダヤ人という言葉は一切使わない。歴史的真実を否定する彼の態度は、修正主義 révisionnisme の父といってもよい。その流れから全否定主義者 négationniste も出てきている。これからは、彼の思想 heideggérianisme を否定するのでは

    ハイデッガーの二つの顔 (III) LA DOUBLE FACE DE HEIDEGGER - フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE
  • 吉本隆明の後半生の戦いはソフト・スターリニズムとの戦いであった - finalventの日記

    ソフト・スターリニズムとは何かが以前なら感覚としてある層には共有されていた。おそらく、60年代安保から70年代安保への裂け目の感性を持つ人がいたからだ。それと、吉は関わらなかったが、ハンガリー動乱が日共的なもののの質的な解体を志向していることに気が付いた人がいたからだ。 今その感性が崩れ去ろうとしてのは、彼らが死期を迎えつつあるからか。しかし、その問いは歴史のなかに忘れ去れさられるに足る解体を遂げただろうか。 そうではないだろう。むしろ、その間隙のなかでべ平連的なものが、戦後民主化的なものと結合して※※的なものに結合して、歴史の感性を失った30代から20代の旧知的な特権に吸着される若者に見られるようになった。面白いことに、吉主義者の私に対する攻撃がこのあたりから起きてきたのはあまりに漫画的というか、俺も吉主義者なんかやってるからだよ、な。 この若者たちには60年代から70年代の間隙

    吉本隆明の後半生の戦いはソフト・スターリニズムとの戦いであった - finalventの日記
    namgen
    namgen 2006/06/13
    むしろ対幻想に関しての原基となった心的現象論の行く末を見てみたい。
  • 1