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佐野眞一『阿片王―満州の夜と霧』(2005年7月、新潮社)が出た時、私の周辺で話題になった。 阿片王とは福岡県立中学修猷館の出身で、上海の東亜同文書院へと進み、中国大陸で阿片を扱って巨万の富を稼ぎ出したとされる里見甫(はじめ)のことである。 玄洋社の研究で里見の名を目にすることはない。しかし、中学修猷館の出身だというだけでも、玄洋社の周辺に位置していたことは間違いない。大正二年に孫文が福岡を訪れたとき、里見は孫文の前で柔道を披露したという。孫文は中華民国が成立した翌年、辛亥革命支援への感謝をこめて玄洋社を訪問したのだ。この時、孫文が修猷館をも訪問したのかどうか、が史実としては問題になる。私の周辺で話題になったというのはそのことである。 里見については、西木正明の小説『其の逝く処を知らず―阿片王・里見甫の生涯』(2001年7月)があることを知ったので、まず『其の逝く処を知らず』を先に手
「『この際吾々は――関屋先生とは今後一切の関係を断絶する――という声明書を、中共側へ送っといた方が、いいんじゃないですか?』 この提案には、私も老川口も賛成して、早速この意味の声明書を作成することにした。」(「ダモーイ」第21回) ところで、阿部たちが滞在することになった南花カン村は、戦争中、日本軍によって恐ろしく荒らされた村であるという。この村に、阿部の長男・皓夫と中国人の世話係の宮とが準備のため一足先に出発した。 50歳の宮は17歳の少年に、戦争中の日本軍の残虐ぶりを、道中つぎのように語ったという。 「『日本鬼子(リーベングイズ)共が、草の先に火をつけて、老百姓(ラオパイシン=庶民)達の家を一軒一軒、焼き廻りおったのだ』 宮同志は、にくにくしげに、皓夫を見た。 『南花カン村120軒の中、残ったのは、たった3軒だけだった。日本鬼子の奴めが!』 宮は、ペッとつばをした。 『だからお前等鬼子
「世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)」(参照)は書名通り、満洲帝国を世界史に位置づけようとした試みの本だが、その試みが成功しているか妥当な評価は難しい。いわゆる左翼的な史学からすれば本書は、珍妙な古代史論と偽満州へのトンデモ本とされかねないところがある。史学学会的には概ね無視ということになるだろうが、おそらく日本には本書をカバーできる史学者は存在していないのではないかと私は思う。 一般読書人にとって新書としての本書はどうかというと、率直に言えば、有無を言わず買って書棚に置いておけ絶対に役立つとは言える。各種の事典的情報がコンサイスにまとまっているので便利だ。ブログに書評を書いてブックオフへGO!という本ではない。ただ、読みやすさと読みづらさが入り交じる奇妙な読書体験を強いられるかもしれない。 言うまでもなくと言いたいところだが、宮脇淳子は岡田英弘の妻であり、その史学の後継者である。岡田英弘
ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546) 明日は街道筋が自転車解放になる日である。車の通行が出来なくなるのでその前にパンを取りに行って歩ければと思っている。同じようなパン屋の支店が違う町に出来たのだが「少し遠く森がないので意味がないかな」と人に言うと、「歩いて行けばいいじゃない。六キロぐらいしかない筈よ」と言われた。なるほどあの方向なら殆どがワインの地所であるので歩きやすい。一時間で往復出来る。平地だから走ればもっと早い。 自転車と言えば、日本の政権交代について選挙戦の様子を伝える中に自転車選挙について触れられている。自転車選挙を始めたのは横山ノックだと思うが今やなかなか面白い事象として世界で伝えられている。なるほど車を使わずに自転車で有権者の中に入って行くのは良いアイデアだ。きっと明日もドイツワイン街道を走る代議士候補
<シベリア抑留死亡者・名簿に刻す>村山常雄さんに聞く(1/10) 今週の<時の人>は、シベリア抑留体験者の村山常雄さん(83)=新潟県糸魚川市在住=です。抑留中に死亡した旧日本兵ら4万6300人分の名前を収めた「シベリアに逝きし人々を刻す―ソ連抑留中死亡者名簿―」(自費出版)で、このほど第12回日本自費出版文化賞(主催:社団法人日本グラフィックサービス工業会/主管:NPO法人日本自費出版ネットワーク)の大賞を受賞しました。祈りの夏、村山さんに、自身の抑留体験や独力で名簿編纂に没頭した日々、そして、いま若い人たちに伝えたい思いなどを聞きました。 【村上常雄プロフィール】1926年新潟県生まれ。43年満州国立ハルピン水産試験場に勤務し、45年5月徴兵で現地入隊、8月、敗戦によりソ連軍の捕虜となり4年間の強制労働に従事する。49年8月舞鶴港に引き揚げ。 その後、教員となり新潟県内の8中学
ピエール先生⇒<中国人>の境界 - 梶ピエールの備忘録。 その「揺れ」を体現したのが孫文の民族観である。「華夷之弁」を唱える革命派の領袖でありながら、一旦中華民国が成立すると「大一統」の系譜につらなる「五族協和」をスローガンとして取りいれ、さらには同化主義を前面に出した「中華民族の創設」へ、さらには民族自決を掲げたコミンテルンとの政治的妥協と、この「革命の父」の<中国人>観は、麻生総理も真っ青なくらい大きくブレ続けた。 中国共産党自体も初期の陳独秀のころはコミンテルンの方針に沿った民族自決・連邦制路線を踏襲していたのが、その後よりプラグマティックな民族区域自治へと大きく転換し、中華人民共和国成立後は清朝の版図を引き継ぐ「大家庭」に各民族が属する、という図式を自明にするにいたった。 単純な同化主義=大漢族主義を戒める費孝通の「中華民族多元一体論」が公式見解として確立した現在でも、その枠組みに
→紀伊國屋書店で購入 1年間余にわたって10日ごとに、「富士倉庫資料」のラベルの貼られたファイルが2冊ずつ、朝日新聞大阪本社から宅配便で届けられた。全72冊の点検が終わったとき、ホッとすると同時にがっかりした。東南アジアを専門とする者として、東南アジアにかんするものがもっとあると期待していたからである。とくに日本が占領した土地で、朝日新聞が担当・発行したジャワ新聞、ボルネオ新聞、香港日報との関連で。 「富士倉庫資料」は、本書でつぎのように説明されている。「朝日新聞大阪本社には、通称「富士倉庫資料」と呼ばれる大量の写真資料が保管されている。撮影時期は1931(昭和6)年の満州事変の前後から第2次世界大戦敗戦までの時代が中心で、アジア各地へ派遣された特派員の撮影や通信社からの配信による写真からなる。その総数は、7万枚以上に及ぶ」。「本書は、2006年7月17日付から2009年3月27日付まで、
藤原書店の藤原社主からご恵贈いただきました。ありがとうございます。 僕は専門がずれるので十分に評価できないけれども、ひょっとしたら日本の外交史や日本政治史の研究の中でも画期的な貢献じゃないだろうか? 後藤新平というとちょっと前まで僕には主に関東大震災以降の復興院による首都再建計画とそれをめぐる経済学者、マルクス主義者たちの論争の標的という認識でしかなかった。それでも一海知義先生が現代語註を加えた鶴見祐輔の『後藤新平』を途中まで読んだことでそのような狭いイメージは覆り、日本の近代化を推し進めた最重要なキーパーソンになっていた。それが今回のこの本で、ロシアとの外交関係において重要な位置をしめていて、後藤の提言や活動がまわりの無理解でとん挫したことが、今日まで至るロシアとの関係がこじれた遠因になっていることがよくわかる。しかしこれは佐藤優の本読むよりはこれを読んだ方が数万倍いいと思うよ。 後藤の
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