能因法師 (のういんほうし。988年~1050年頃) 長門守(ながとのかみ)橘元愷(たちばなのもとやす)の息子で、俗名は永愷(ながやす)といいました。父の兄・為愷(ためやす)の養子となったようです。大学で詩歌を学び漢文学や歴史学といった学問を研究する学者、文章生(もんじょうしょう)となりましたが、26歳の時、養父が郎党に殺害され、官途に望みがなくなりました。幼い子もいたようですが、恋人の死をきっかけとして、官職より歌の道の自由を求めて出家を決意しました。摂津国(せっつのくに:兵庫県)の古曾部(こそべ:今の大阪府高槻市)に住んだので「古曾部入道」とも呼ばれましたが、寺院に定住せず旅に暮らしました。最初の法名は「融因(ゆういん)」でしたが、後に「能因(のういん)」としました。藤原長能(ながとう)から和歌を学び、諸国を旅して歌を詠むわが国初の漂泊の歌人として、東北や中国地方、四国などを旅していま