織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。 信長のコトバ:「此の半分を以って、隣家に小屋をさし、餓死せざるように情を掛けて置き候へ」 信長は最後まで京都に居を構えなかった。関白二条晴良の屋敷跡に新邸を築かせたことはあるが、完成すると間もなく東宮に献上している。足利義昭を追放し事実上の天下人となっても、領国と都の間を頻繁に行き来するのが信長の日常だった。 そういうある日。安土で築城が始まる前年、天正三年六月二十六日のことだ。急遽上洛することが決まり、慌ただしく岐阜城を出立した信長は、美濃と近江の国境付近にあった山中とい