太田 牛一(おおた ぎゅういち / うしかず / ごいち)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、官僚。『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。 諱は天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なもので古いものは天正17年(1589年)から「牛一」と署名して、晩年までこれを続けた。そのため信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたのではないかと言われている。また平家語り一方流琵琶法師が名乗りの一文字の末尾に「一」を付けるので、それに倣ったという説もある[1]。 大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・愛知県名古屋市北区)のおそらく土豪の家に生まれる[2]。 成願寺において僧侶をしていたが、還俗し斯波義統の家臣となる[3]。天文23年(1554年)7月12