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匿名ダイアリーと*lifeに関するnijigenjinのブックマーク (63)

  • 中学1年1学期で引きこもった弟の話

    ニュースで今日9/1は子どもの自殺が一番多いと言っていたので 中学ほぼ不登校でも今は人並みの生活を送っている弟の話を書こうと思う。 アトピーといじめと人間不信で入学早々不登校になった弟は不登校児のステレオタイプでテレビゲーム三昧の日々を過ごしていた。 親はひどく心配していたが、俺は同じ中学校を卒業した身として中学時代は授業中はコミック回し読み、休み時間はTCG(遊戯王やガンガンヴァーサス)しか してなかったから不登校でも大丈夫だと強弁した。そしたら親から弟の不登校対策を任されることになってしまった。 当時大学生の俺は不登校児に対する対応など何も知らなかったので、取り合えずコミュニケーション大事だよねってことで弟と一緒にゲームをすることにした。 弟とは不登校前からよく格ゲー(鉄拳やGG)の対戦で兄の威厳を示していたが、弟の24時間やり込みの前あっという間に負け越すようになってしまった。 そし

    中学1年1学期で引きこもった弟の話
  • なんか結婚できた

    今年の2月に結婚したのだが、そこに至るまでの経緯がかなり変わっているので、ちょっと文章に残しておこうと思う。 彼女と最初に会ったのは13年前なのだが、最近までほとんどまともに会話したことがなかった。 最初に会ったのは留学先のトロントだった。バイトしていた和レストランで、数回だけ彼女とシフトが重なった。その店は日人の留学生を積極的に雇っていた。 彼女は僕より先に帰国した。連絡先を交換することもなく、軽く挨拶だけして別れた。特に仲良くなったわけでもなかった。 数年後、彼女はマッサージ嬢になっていた。いわゆるグレーな店ってやつだ。僕はサラリーマンになっていた。会社帰りに先輩と酒を飲んで、酔った勢いで入った店に彼女がいたのだ。体のラインがくっきり見える白いワンピースを着ていた。スカートはパンツが見えるぐらい短くて、とんでもなくエロかった。お互いに顔を見合わせて、アッという顔をしたが、それ以上は

    なんか結婚できた
  • DQNネームを名付けられた俺の末路

    増田がDQNネームについて語っているのを見てどうしても増田に書いておきたい衝動に駆られたから書く これから子供の親になる増田が子供の名前を付ける時の参考にでもなれば幸いに思う まず肝心の俺のDQNネームの詳細についてだが、俺の名前は謂わば「女の子みたいな名前」のDQNネームだ そこでここでは仮に俺の名前を「薫(かおる)」としておきたい 俺が最初に自分の名前について違和感を感じたのは幼稚園の時だった 当時同じ幼稚園に女の子で薫という名前の子が複数在籍してて、子供心に「薫って名前の男の子はいないのに、女の子は沢山いるんだなぁ」と思っていた 次に違和感を感じたのは小学生3年生の時 親の都合で転校した先の学校で自己紹介をしたのだが、複数のクラスメイトが示した最初の反応が、「女みたいな名前!」だった この時に初めて自分の名前に羞恥心と嫌悪感を抱いたし、自分の名前が他の人からみたら変な名前なんだという

    DQNネームを名付けられた俺の末路
  • 【追記あり】『普通の大人』になるので精一杯だった。

    親の片方が小学校入学直前に死んだ。急死だったらしい。死体を見付けたのは私だった。 残った方の親はろくでなしだったので子育てなんて出来るはずも無く、親戚の家を転々とした。 親戚はドラマに出てくるようなひどい人は居なかった。でも歓迎はされていないのは解っていたので、いつも肩身が狭かった。 それでもとうとう行く先が無くなって、小学校を卒業してすぐ施設に入った。これが最低だった。 底辺の掃き溜めっていうか、まともな奴がほとんど居ない。学校毎日行ってるだけで優等生で、いじめも暴力も当たり前に横行してた。 薬やってる奴も居たし、体売って小遣い稼ぐのも万引きして欲しいもの手に入れるのも普通だった。 あそこに入ってる子とは遊んじゃダメって親に言われた…と疎遠になった子も居る。子供心にそりゃそうだって思った。今でもあの親は正しかったと思う。 私は施設色に染まらなかったので施設の中に友達は出来ず、外の子とばか

    【追記あり】『普通の大人』になるので精一杯だった。
  • 叱られた時のショックが消せない

    30近い人間の言うことと思えないが、リアルに困ってるので教えて欲しい。 叱られた時、どうやったら叱られた時のショックは蓄積しないで立ち直れるんだ?自分は空気があまり読めず、読めないが故に無礼な発言や過剰な発言が多い。KYなんて可愛いものではなく、基的発想が自己中心的で無神経の域だと思う。 自己中の自覚はあり、人を不快にさせる発言を改善したい気持ちもあり、微々たるものだが改善してはいる。指摘してくれた相手には感謝しかない。 自己啓発系のを読んで、失敗も経験といった考え方や、落ち込まないように抑制すると逆効果だからX時までとことん落ち込むと時間で区切る方法を学んだ。 実践してみてそれなりに効果はあったと思う。 「何で自分は言う前に気づけ無いんだ」と自責して終わりにせず、「これが駄目だったのならこう変えよう」と改善に繋げられるようになった。 なのに「またやってしまった!」と気づいた時のショッ

    叱られた時のショックが消せない
  • テトリス

    小6の時、親が離婚して母子家庭になった。父親とはその前からずっと別居していたから、家庭内に際立った変化は感じなかったけれど、苗字が変わったのがきつかった。同級生から好奇の目を向けられるのがとにかく嫌で、一時期、友達と遊ばなくなった。授業が終わると逃げるように家に帰った。 それで何をしていたかというと、部屋でずっとテトリスをしていた。布団に寝そべり、枕を高くして、毎日、何時間も。 そうこうするうちに、いつのまにか新しい苗字に馴れていた。同級生も僕の苗字のことなんて大して気にしてないことがわかった。僕はまたみんなと遊び始めた。 大学受験に失敗して浪人が決まった時も、ずっとテトリスをやってた。朝から晩まで一日中やってた。起き上がる気力もわかなかった。2週間ぐらいそうして過ごした。そのあとゆっくりと受験勉強を再開して、徐々にペースを上げ、翌年にどうにか志望校に合格することができた。 大学2年の時に

    テトリス
    nijigenjin
    nijigenjin 2017/05/25
    テトリスが長寿ゲームと確認できる増田文学
  • ソニー株式会社を退職しました

    表題の通り、数年勤めたソニー株式会社を退職しました。 個別具体の退職理由はいろいろあってそれらは後述しますが、退職を決めた基的な理由は、個人的なキャリアパスの設計と会社の方針のミスマッチ、労働観のミスマッチ、技術投資の考え方のミスマッチの三点に集約できると思っています。 キャリアパスの設計と会社の方針のミスマッチ私はソニーでソフトウェアエンジニアとして働いていました。 ソフトウェアエンジニア(を目指す人間)にとってソニーと言えば、"自由闊達な理想工場"、エンジニアが自由に活躍できる会社、日のメーカーなのにソフトウェアもちゃんとつくれる会社、などのイメージがあるかと思います。私もそう思っていました。 実際会社は説明会などでそういった説明をしましたし、そういったイメージを前提に私はソニーを選び、「エンジニアとしてプロフェッショナルになる。品質が高く、お客の求める体験を作り出せる人間になる」

    ソニー株式会社を退職しました
    nijigenjin
    nijigenjin 2017/04/03
    余談が興味深い
  • 読書に限らず、何か行動を起こしたいときには抵抗の順番に環境をコントロ..

    読書に限らず、何か行動を起こしたいときには抵抗の順番に環境をコントロールするとよい。 電車の中で読書が捗るという人は、恐らくを開くことよりスマートフォンを眺めることのほうが抵抗が強いのだろう。 人によってはを持ち歩いて鞄から出して両手を塞ぎながら読むということのほうが抵抗が強い場合があるので、一概に電車なら捗るというものでもない。 テレビゲームなどの抵抗なくできるものが沢山ある自室内で読書を選択することは、他にできるものを我慢するストレスと戦う必要があるので、よほど読みたいでない限り無理だと言って良い。 人間は誘惑の奴隷だ。そして誘惑は満たしても満たしても次から次へと生み出されるものでもある。 その中で必要な行動を選び続けるには、誘惑との距離という制約を自らが能動的にコントロールする以外にない。 ただ、この原則を理解できればかなりのものに応用することができる。 勉強、筋肉トレーニン

    読書に限らず、何か行動を起こしたいときには抵抗の順番に環境をコントロ..
  • 首を吊ったときの話

    数年前のことだ。私は当時患っていたうつ病が回復する兆しが見えなく、この先明るい未来があるとも思えなく、生きていてよかったと思える瞬間もまったくなかったので、自殺をしようと思った。 1人暮らしのアパートから、Amazonで頑丈だと評判のロープを注文した。ほどけにくいロープの結び方をネットで調べた。自殺が失敗して変に重い後遺症を持ったまま生き残ってしまうほうが怖かったので、慎重にやろうと思った。最後にツイッターに自殺予告でもしようかと考えたりもしたが、仮に誰かが警察に通報するなどしたら中途半端なところで救出されてしまう可能性があったので、何も予告まがいのことはしなかった。当にそこまでしてくれるようなフォロワーがいたかどうかは分からないが。 あとは部屋の中で台に乗って、首を吊る準備をした。この時点でもそれなりの恐怖を感じていたが、やめなかった。事前に酒を飲んでおくと楽だという話を何度か聞いたこ

    首を吊ったときの話
  • ノーセックス・イン・ザ・シティ:日本に住む外国人女性の気持ち

    何年も前の記事だけど、ふと思い出して訳してみた。 反応が気になるので、ちょっと長いけど増田に投稿してみる。 ノーセックス・イン・ザ・シティ:日に住む外国人女性の気持ちReannon Muth 「女性教師に長くいてもらうのは大変なことなんだ。」東京で英語教師になって初出勤の日、私の上司はこう告げてきた。「大抵の場合、6ヶ月以上はもたない。」私は驚いて、登録教師のリスト(30人―全て男性)から目を上げた。 「それはこの学校でという意味ですか?」 「いや。日で、という意味だ…。」彼は肩をすくめた。「東京は独り身にはつらい街なんだ…西洋人の女性にとってはね。分かるよね…。」 彼の後ろの壁にかかっていた写真をちらりと見た。四人の中年の白人男性。みんなひげを生やして禿げかかっていた。同じような歳の取り方で、垂れ下がった髪がメタリカのメンバーに似ていた。そして全員が、モデルのようにほっそりした身体の

    ノーセックス・イン・ザ・シティ:日本に住む外国人女性の気持ち
  • 水商売慣れし過ぎた俺の婚活

    キャバ、ガールズバー、メイドカフェ、お散歩 そんな所が大好きな俺の婚活 5月の初めから開始したが既にダメだ 何がダメかと言うと女のサービスが抜け切れてない ふと戸惑ってしまうことが多い 具体的にはこんな感じ 連絡先のこと ・女が自動的に連絡先を教えてくれない ・女が連絡先を教えてくれた後、先に連絡してくれない 会話中 ・女が話掛けて話題を振ってくれない ・女が話を盛り上げてくれない ・女が同意してくれない ・女が笑ってくれない デート中 ・女がデートプランを考えてくれない ・女がデートでエスコートしてくれない ・女が店で注文をしてくれない ・女が店で注文を一緒に考えてくれない ・女が事を取り分けてくれない ・女がべさせてくれない ・女が会計後次の行く所を調べてくれない ・女が地図で案内してくれない ・女が分からない事を店員に聞いてくれない ・女が周囲を確認して注意してくれない ・女が時

    水商売慣れし過ぎた俺の婚活
    nijigenjin
    nijigenjin 2016/06/22
    高望みし過ぎのような
  • どうしても長女を愛せない

    どうしても愛しいと思えない。どちらかといえば嫌いに近い。 虐待なんか絶対にしたくないので母親ならすべき行動や言動を頑張ってるけど頭で考えてから動くので疲労感が凄くある。 次女に対しては自然な感情で愛しいと思えるのだけど、長女には抱きついてこられても抱きしめ返すだけでも苦痛。生理的に好きじゃないものを好きなフリしなきゃならない。 たまにいる性格も顔もうけつけないタイプの人間が何で娘なんだろう。 これからも途方もなく長い時間を芝居し続けて生きなきゃならないとかどんな罰ゲームなんだろう。 こちらに追記を書きました http://anond.hatelabo.jp/20170201151127 わたしは慰められたいとか同情されたいとか思って増田に投稿したわけではなくて、理解されないことは重々承知でそれでもどこかに吐き出してみたかった。 親権も取れなかったというわけではなく金銭面のことや相手の実家が

    どうしても長女を愛せない
  • 資生堂ショック報道への反応のズレ

    女性に対して酷いとか企業の甘えだみたいなのがブコメでもあって強い違和感がある。 資生堂は、世の中の2歩も3歩も先に行ってて、だからこその今回の報道なんだけど、それが判ってないコメントが多いと思う。 (資生堂ショックとは、資生堂が美容部員の時短勤務者に土日や夕方以降のシフト入れを促す施策の事) 資生堂に対してなにか言う時の前提資生堂は離職率を公表しており、2013年度の国内資生堂グループ(管理・総合職)で3.2%だ。2014年度4.2%。 しかし、結婚・出産・育児理由は、0.03%にすぎない。2014年度は、ついに0.00%になった。 美容職で、離職率2013年度 3.1%(結婚出産育児理由0.80%), 2014年度 3.7%(結婚出産育児理由1.00%)。 1990年(25年前)には育児休業を3年に。1991年(24年前)には時短勤務(育児時間)導入。1993年(22年前)には介護休業、

    資生堂ショック報道への反応のズレ
  • 派遣のおっさんが自殺した

    当方、大学四年生。某単発系仕事サイトから応募して、倉庫の仕事にありついた。 週5日働いてるレギュラーの中に、ひときわキモくて仕事が遅い中年のおっさんがいた。 年下の上司にも怒鳴られ、舌打ちされ、嘲笑されていた。 昼飯どきに、休憩室で座ったらおっさんが隣だった。 同じ派遣会社だったらしく、色々と話をした。 で、仲良くなれたと思ったのか、おっさんが帰りにもついてきて、一緒にバスに乗った。 おっさんは、自分がダメだと気づいていて、30中盤で低所得、低スキルの典型的弱者だよなぁ、趣味を探しても、仕事がこれだから何やっても楽しめないよ、と嘆いていた。 降りる停留所のちょっと前で俺は「おっさんは弱者なんかじゃないよ」と切り出した。 「おっさんは障害者と違って、頑張れるでしょ?あのくっさい倉庫の中で、年下にバカにされて、スキルもつかない仕事にへばりついた人生をこれから送るんだろうけどね。おっさんの過去な

    派遣のおっさんが自殺した
  • ふと思い立って企業した

    高校を卒業してすぐ就職して12年働いた。当時は完全ノルマ制の営業職だったので 毎日毎日毎日、ただがむしゃらに働きながら先輩や上司との飲みに付き合い仕事のノウハウや愚痴を聞いた 6年ほど経った頃、人当たりの良さとアンテナの感度が良いという理由からバイヤーに転属させられた しかし、この部署は新規事業のひとつとして立ち上げたうえに俺がトップということだった 急な転属で右も左もわからない俺は同業者に頭を下げて休日返上で同行し学ばせてもらった そのノウハウを部下に教えるための方法も考えなければならないため、大げさな言い方だが不眠不休で働いた 部署は大きくなり更に大きな案件も抱えることになり、プレッシャーも大きくなった 友達がFacebookで楽しそうなイベントを報告するのを眺めてはため息しか出なかった それから数年後の去年、体を壊して入院した。過労だった 幸いにも上司や会社から謝罪があって、退院後し

    ふと思い立って企業した
  • 大人になると大変だって言うけど

    子供のころの方が、圧倒的につらかった。 教室に閉じ込められて、面白くもない話を延々と聞かされる。 勉強をするだけなら自分で教科書を読んだほうが早いのに、それを許してもらえない。 社会性を身に付けるために学校へ行くんだって言うけど、腕力の弱い人は一方的に虐げられるのが社会っていうものなんだろうか。 殴られたり、持ち物を捨てられたり、ひどい言葉を浴びせられたりしても、大人はもっと大変なんだと思って耐えてた。 きっといつか私のこころに限界が来て、耐えられなくなるから、そのときが来たら幕を閉じてしまえばいいと思っていた。 でも案外、私のこころは早いうちに麻痺してしまって、その程度の痛みには何とも思わないようになった。 高校、大学、大学院と進学するにつれて、私を攻撃する人は誰も居なくなった。 就職後のことはとても不安だったけど、実際就職してみれば何事もなくて拍子抜けした。 「私の考え」を批判する人は

    大人になると大変だって言うけど
  • 上京してきて年収350万円で五反田の山手線の内側に住んでた

    http://anond.hatelabo.jp/20140416203932 元増田を読んでふと思い立って。 ちなみに現在は東京に出てきて10年がたち年収は1000万近く(超えてはいない)になり結婚、子供も出来たので川崎近郊に一軒家を買っています。 ここで書いているのは10年前~4年ほど前のお話しです。 当時は会社が恵比寿にあり、業種柄デスマになりがちのためとにかく近いところ、と言う点で最初は大崎に住みました。 大崎はご存じの方もいらっしゃいますが山手線の外側は少し歩けば閑静な住宅街です。 駅から徒歩5分のボロアパート(築45年)でしたがなんと家賃は6畳一間で7万円。強気すぎる。 収入の1/3は家賃で消えます。 室温と外気温がおなじになるというスキマだらけの部屋です。選択した理由はただ一つ、風呂トイレが別という点だけ。 押し入れの壁は紙で出来ています。突っ張り棒で穴が空きました。 お風呂

    上京してきて年収350万円で五反田の山手線の内側に住んでた
  • 大学5年生だったころに経験した日雇いアルバイト

    留年した年、親からの仕送りがストップしたため、1年間日雇いのアルバイトをした。 夕方6時から翌朝8時まで、自宅付近にあった運送会社の集配所で、荷物の仕分けをする仕事だった。 残す単位は2つだけだったので、学校に行く必要はほとんどなかった。 アルバイトに来るのは合計7人くらい。顔ぶれは毎日ほとんど同じ。 学生や見知らぬおじさんが来ることもあったが、2日以上勤務する人は当にまれだった。 たまに続けて出勤する人もいたが、数週間くらいで来なくなり、またもとのメンツに戻る。 勤務時間が長いし、ずっとダンボール箱を移動しつづけるのは当に辛いし、常連メンバーの雰囲気も独特だった。 学生はひとりもいなかった。 働く場所は、鉄骨で組まれた大きな倉庫だった。 夕方、倉庫に到着すると、片側半分くらいがうず高く積まれたダンボールで埋まっている。 もう片側には運送トラック用の搬入・搬出口が8カ所ほどある。 僕た

    大学5年生だったころに経験した日雇いアルバイト
  • 許し難い言葉

    男の子を持つお母さんたちが立ち話をしていた。 「年頃になると心配なことが増えて来るわよね。」「今の子って、エッチを覚えるのも早いって言うし。」「女の子を妊娠でもさせたら困るわよね。」みんな、うんうんうなずいていた。 すると、ある一人が、言った。 「でもさ、結局、男の子は相手の女の子にお金払えばいいんだから。」 その瞬間、みんなが爆笑した。 誰かが「それもそうね。」と同意した。それでそれきりその話は終わりになった。 その後、その場にいたある一人のお母さんが私にその話をした。 彼女は、みんなで爆笑して「それもそうね。」とうなずいたことに違和感を覚えていた。「ひどいよね。」と、彼女は言った。 たぶん、その場で笑った他のみんなも心の奥で「ひどいよね。」とちょっと思っていたかもしれない。でも、だれも「ひどいよね」とは言わなかった。 話は爆笑で終わったんだ。みんな、男の子を持つお母さんだった。 自分の

    許し難い言葉
  • A子に負け続ける人生

    1A子とは高校1年生の時同じクラスになり、仲良くなった。 音楽趣味がとても似ていたからだ。 ただし、境遇はかなり違った。私の家は貧乏で塾や習い事にも行けなかったが、彼女の家は金持ちで、いろいろな習い事をしていたし、家に遊びに行くと見たこともないような綺麗なお菓子といい匂いの紅茶が出てきた。 それでも劣等感を感じずに友達でいれたのは、容姿に関しては私のほうが上、と思っていたからだと思う。 彼女は太っていて近藤春菜似。洋服のセンスもダサかった。(これは、10年経った今でも相変わらずである) 私はスタイルには自信があり(実は中学までは太っていたのだが、頑張ってダイエットした)、眞鍋かをり似と言われる。もちろん眞鍋かをりほど可愛くはないが。 古着をリメイクするのが趣味で、センスが良いと褒められることが多い。実際、大学時代には作った服をオークションに出すと高値で売れていたので、おせじではないと

    A子に負け続ける人生