ちょっと古い話になってしまうのですが、雪斎さんの対中「封じ込め」(containment)論について、強くうなずくところがありましたので、思うところを述べてみます。この記事を書いている間に雪斎さんは新しい記事を次々に書かれて、少しズレてしまったところもあるのですが、細かいことは気にしないで(笑)お気楽にご覧いただければ幸いです。 ・・・ ケナンが唱えた「containment」のそもそもの意味は、ソ連の政治的・経済的影響力が実体的な脅威を与える状況において、米国がそれに対抗するべき(不関与主義に立たない)ことを主張したものでした。恫喝や強硬的な姿勢によってソ連をうち負かすことを主張するものではなかったことは重要と思います。 冷戦開始時に国務省の初代政策企画室長に就任したケナンは、第二次大戦から続く楽観的なソ連との協力関係に懐疑的でありながら、短期的・直接的な手法でソ連に対抗することの
〈無謀な戦争をしてはならない〉 軍事は国家の命運を決する重大事である。だから軍の死生を分ける戦場や、国家の存亡を分ける進路の選択は、くれぐれも明察しなければならない。そこで、死生の地や存亡の道を考えるために五つの基本事項を用い、さらにどこが死生の地でどれが存亡の道かを明らかにするため、彼我の優劣を比較・計量する基準を使って、双方の実状を探る。 基本事項(五事)は、(一)道、(二)天、(三)地、(四)将、(五)法。 (一)道 民衆の意思を君主に同化させる、内政の正しさ。 ふだんからこれが実行されているからこそ、戦争になっても、民衆に統治者と死生を共にさせることができ、民衆は政府の命令に疑いを持たない。 (二)天 陰陽、気温の寒暖、四季の推移のさだめや、天に対する順逆二通りの方法、および天への順応がもたらす勝利など。 (三)地 地形の高低、国土や戦場の広い狭い、距離の遠近、地形の険しさと平坦さ
私ももう40半ばになってしまいました。若い頃はずいぶん無茶をしましたが、最近は猫をなでてワインを飲むのが趣味になってしまいました。 メールもどうぞ guccistar@gmail.com 昨日はちょっと遅い新年会。そう、例の秘密結社の集まりでして、御大かんべえ先生、さくらさん(親分)、実は女子アナフリークの雪斎殿(失礼!)、相変わらずかっこいいやじゅんさん、そして、相変わらず迫力満点の副会長殿、とまあ、みればみるほど濃いメンバー。超オフレコ話の応酬でそりゃー、楽しく無い訳無いんですが、こりゃー、書けませんがね。 あと、昨日ひるめしの話を書き込んだら、いつもと違う多彩な方々が登場され、やはりいろいろな話題を展開した方が良さそうだ、との考えに至りました。みなさま、ご登場有難う御座いました!! 今後ともネタ探しに勤めます。 ということで、今日はちょっとはサービスしたい気分でして、手持ちネタ
政治コメンテーターの氏と日本経済新聞コラムニストの田勢康弘氏が31日、東京都千代田区の日本外国特派員協会で「ライブドア事件の政治的インパクト」をテーマに講演し、記者からの質問に答えた。証券取引法違反容疑でライブドア前社長の堀江貴文容疑者が逮捕されたことについて、田原氏は「一言で言えば、誠に残念だと思う」、田勢氏は「はっきりしているのは、何もはっきりしていないということ」と述べた。 田原氏は、少し前まで堀江容疑者を絶賛していたテレビのコメンテーターが、急に道徳家になり非難を始めたと指摘。日本の旧体制を変えるために妥協をしない“異端者”として、堀江容疑者は若者やマスコミから支持されたし、自民党や経団連が堀江容疑者を受け入れたのも、密室談合的な古い体質から脱皮しようとしたと受け止めていると話した。 田勢氏は東京地検の強制捜査について「時の政権にこれほど都合の悪い事件にもかかわらず、首相官邸が直前
「この女に石を投げるな」、東横インの小さな親切。 2006年01月31日12時05分 / 提供:PJ 写真拡大 小さな親切・東横イン横浜大通日銀前のフロント係、村上さんの可愛いメモ。(撮影:今藤 泰資) 【PJ 2006年01月31日】− 東横イン西田憲正社長の釈明記者会見は、多くの視聴者の顰蹙(ひんしゅく)を買った。その程度の見識だから、不法改造は次々暴かれてゆく。高齢者や身障者への配慮が全くなされないと、北川国交相も怒っているという。弁明の余地など全くはなさそうだが、政府もマスコミも国民も、こぞって罵声を浴びせればこの事態は解決すると言うのか。ホリエモンを追放するような気配とあいまって、連日粛々と人民裁判が執り行われているような恐怖を感じてならない。 全国チェーンのホテルの多い中、「定年ご苦労様」という高齢者割引が制度化され、支配人を始め、女性雇用推進では全国的なモデルであり、低所
これはサンプルページです。同じ位置に固定され、(多くのテーマでは) サイトナビゲーションメニューに含まれるため、ブログ投稿とは異なります。サイト訪問者に対して自分のことを説明する自己紹介ページを作成するのが一般的です。たとえば以下のようなものになります。 はじめまして。昼間はバイク便のメッセンジャーとして働いていますが、俳優志望でもあります。これは僕のブログです。ロサンゼルスに住み、ジャックという名前のかわいい犬を飼っています。好きなものはピニャコラーダ (通り雨に濡れるのも) 。 または、このようなものでもよいでしょう。 XYZ 小道具株式会社は1971年の創立以来、高品質の小道具を皆様にご提供させていただいています。ゴッサム・シティに所在する当社では2,000名以上の社員が働いており、様々な形で地域のコミュニティへ貢献しています。 新しく WordPress ユーザーになった方は、ダッ
脳波というもの ゲーム脳とはなんじゃい? 巷間騒がれているゲーム脳というものに知人が興味をもち、自分の脳波を見てみたいというがどうすればいいだろうかという内容のメールをいただいた。 こんな風に真面目に取ってしまう人もいるのだから、あれを主張している森教授という人も罪作りだ。そもそも脳波というのは一般にかなり誤解されているもので、なにか思考内容が電波にのって出てきているかのごとき理解をしている人も多い。昔、オウム真理教の信者が麻原の脳波パターンを自分に埋め込むとかいって、妙な電極帽子をつけていたりしたが、あれは彼ら独自の妄信などではなく、一般的誤解がああいうかたちで結実しただけのことだと思う。 脳波というのは要するに、脳内の約150億ほどの神経細胞の電気活動の総和である。たくさんの脳細胞が基本的にはランダムといっていいような形で短時間の電気的興奮をおこすが、その総和はある程度の周期性を持つよ
大名が動員できる人数は? 「関ヶ原に集結した西軍総勢十万」とか、「籠城の会津五千の兵」とか言いますが、いったい大名はどのくらいの兵を動員することができるのだろう? 大名と言っても時代により違うだろうが、まず戦国の大名から。 「関ヶ原合戦」(中公新書)によると、万石につき二百五十人前後とのこと。これで換算すると、石田三成十九万石は五千人弱と、実際の六千人に近い数字になる。他にも、福島正則二十万石は五千人(実数六千)、宇喜多秀家五十七万石が一万四千余(実数一万七千)と、だいたい合う数字になる。 また、「戦国合戦辞典」(PHP文庫)によると後北条氏は七貫文につき一人の軍役だったという。一貫文は十石にあたるとすれば、これで計算すると万石につき百四十人と、前書に比べ少ない数字となる。実際、二百八十四貫(約三千石)の宮城氏は騎馬武者、鉄砲持ち、旗持ち等含め三十六人の軍役を課されている。(万石あたり百二
戦国通史 争乱の備前・備中・美作 元弘の乱で、後醍醐天皇に忠を尽くし、その後の建武の新政では、後醍醐天皇に謀叛した足利尊氏に与して、南北朝期、播磨・備前・美作の守護に赤松氏が任じられた。しかし、嘉吉の乱に赤松氏が没落すると、播磨・備前・美作守護には山名氏が任じられた。そして、応仁の乱に再興をはかった赤松政則は細川氏に属して、旧領の回復を賭けて山名氏と戦い、ついに宿願の旧領回復を果たしたのである。 そして、美作・備前守護となった赤松政則は、再興とその後の応仁の乱に力を尽くした浦上氏を守護代に任じた。浦上氏は三石城を本拠とする赤松氏の根本被官であり、赤松氏の宿老として重きをなしていた。さらに則宗は京の治政にも力量を示し、将軍義政・義尚らの信任も厚かった。 備前国の動向 文明十五年(1483)金川城を本拠とする守護代松田元成が、備後守護山名俊豊の援助により蜂起。福岡城に拠る赤松氏守護代浦上則宗を
剣片喰(けんかたばみ)は、日本の家紋「片喰紋」の一種である。 宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓だが、嫡流は佳字を当て「宇喜多」(宇喜田)、庶流は本来の「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている[3]。家紋は剣片喰(剣酢漿草)だが、敵対していた備中国の名族三村氏が古くから剣片喰紋を用いていたためか『兒』文字紋も多用していた。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋も兒文字とされているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。 出自[編集] 宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗って
宇喜多 直家(うきた なおいえ)は、戦国時代の武将。備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。官位は従五位下。宇喜多興家の子とされるものの、近年否定されている[注釈 3]。子に秀家など。室は正室(『太閤記』では中山勝政の娘とされるが一次史料は存在せず名前や出自は不明)と、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とされる円融院。 生涯[編集] 浦上家臣時代[編集] 享禄2年(1529年)、宇喜多興家の子として生まれた[3]とするが、興家の名前が初めて登場するのは、直家の時代から150年ほど経った『和気絹』であり、延宝6年(1678年)に記された『西国太平記』では「父某が島村観阿弥に殺された」と記されている。一説に備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城で生まれたという[注釈 4]。 軍記物に由来する通説によると、浦上村宗の敗死による混乱の中で、享禄4年(1531年)[1]
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