また資料集は、国際法上、乙巳条約(1905年)と間島協約が無効化すれば、奪われた間島を取り戻せるかのように記述している(87ページ)。これに対し財団の評価書は「間島協約前に間島の領域を確定し、間島を韓国の領土とした事実はない」としている。 韓国史の優秀性を強調するため、客観的な事実を任意に裁断した部分もある。支石墓は古朝鮮だけにあったと記述し、中国にはいかなる形態の支石墓も見られない(27ページ)と記述しているが、財団側は「支石墓は中国東部沿岸地域でもかなり発見されている。考古学的な研究成果を反映していない」と反論した。 単純な誤りも10カ所ほど見つかった。渤海を建国した大祚栄は振国王と呼ばれたが高句麗王と記録し、清が満州の封禁政策を解除したが「朝鮮が解除した」と記述している。また、白頭山境界碑は「朝鮮と清の口頭合意で1792年に建設された」と記述(88ページ)しているが、実際には双方代表