【自分語り】1推しの卒業によせて . 私の1推し、ゆきりんこと柏木由紀ちゃんが、17年に渡り在籍したAKB48を卒業することになった。 この機会に、ゆきりん推し(48ファン)としての自分自身のことをすべては不可能であるものの振り返ろうと思う。 内容からして世代がわかることも仕方ないし、限りなくゼ…
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fuuuuuuunさんとこのブクマから飛ぶ。 「心配してくれてありがとう」/ 他者と私とAS(アスペルガー症候群) そうしたら、相手からメールが届いた。「ありがとうとか、心配かけちゃったねとか、そういう言葉がなくて悲しかった。アスペルガーとか関係なく、そういうのは大事なことだ。しろさんにとって私は何なんだろうって複雑な気持ちだ」と書いてあった。 これを読んで、「ああ、またやってしまったんだ」と思った。 はあ〜、っつ〜かなんつ〜か。そうかあとか思った。思ったのは要するに、こうやって自己評価を下げていくんだなというか下げさせられていくんだなあと思うということ。 定型非定型関係なく、この話に出てくる「相手」がおかしい。この流れの中で「しろさん」にこの要求をすること自体おかしい。 他者に対して「心配する」という心理や行為行動は「自主的に行うもの」であり、いわば「自分が決めて勝手にやってる」ことだと
AS(アスペルガー症候群)当事者の日記です。定型発達の人たちと関わっていて気がついたことなどを書き留めています。 今回はとても勉強になったので、忘れないうちに書いておく。 私は最近、二次障害と思われる鬱が結構ひどくて、某所で「死んでしまいたい」というような鬱々とした日記を書いた。 そうしたら、自身も辛い状況にある友人が心配してくれて、メッセンジャーで声をかけてくれて、少し私の話に付き合ってくれた。 その後私は寝て、起きたら、その友人からメールが届いていた。内容は「お願いだから生きていて。どんな手段でもいいから連絡して」というものだった。 だから、私は「大丈夫、さっき起きて食事した。今は元気」と、生きているという報告だけをメールした。 そうしたら、相手からメールが届いた。「ありがとうとか、心配かけちゃったねとか、そういう言葉がなくて悲しかった。アスペルガーとか関係なく、そういうのは大事なこと
夫婦の会話 - S嬢 はてな/明日は明日の風が吹く そうなんだよね、と思う。関係性の歴史の中でだんだんと線ができていくんだよね、と思う。いっしょに暮らしていく年数も自分たちの状況の時代も関係していくと思う。そして相互の個性と。 あと、このトラックバック受信で思い出したこと。っていうか、時々ふと思い出すことではあるんだけど。 過程と結果のどちらに価値を求めるか/ロリータハッピーウィングな日々 結婚前に夫は一級建築士の資格を取った。そして彼の仕事はどんどんハードになっていった。常に終電利用。そしてそういう時代だった。仕事はあふれ、引き抜きの話もたくさんあった。 その頃、あるひとつのニュースが報道される。夫の帰宅が遅く、会話も無く、相手にされないと、淋しくて死んでしまった妻。踏切に飛び込んだ。住所はけっこう近所。この「夫」はわたしの夫と同い年。そして同様の職種だった。つらかっただろうなあと思った
アディクション(依存症)の影響から、たった一人の力で回復していくのは、非常に困難です。しかし、同じ問題を抱えている仲間と、自らの体験を分かち合うことにより、より容易に回復への道を歩むことが可能になります。 自助グループによってまず得られるのは、これまでにない安心感です。 もし、あなたが自分に正直になって、あなた自身のことを語ったとき、あなたの話は、深い共感を持って受け入れられるでしょう。そのときあなたは、自分はここにいてもいいのだという安心感を全身で感じることができるでしょう しかし、自助グループに通い始めた頃は、自分で話をすることよりも、仲間の話を聞くことを大切にする方がいいかもしれません。「初めは足を使え。次に耳を使え。最後に口を使え。」という言葉もあります。例えあなたが一言も話をしなかったとしても、あなたは大切な仲間として受け入れられるはずです。 やがて参加者は、安心感だけではない、
パワーゲームというのは、社会のあらゆる場所で日常的に行われています。 職場で、学校で、政治の世界で、国家間で。 勢力争いをし、権力を誇示して人を威圧し、関係の強弱を知らしめ相手をコントロールし…。 家庭こそがパワーゲームの始まりだという人もいます。 祖父、祖母、父親、母親、兄、姉、妹、弟…そういった立場で生じる力関係は家族の中にもあるでしょう。 けれど、子どもが保護者に無条件に受け入れられていることを確信していれば、そういう力関係とは別のところで、もっと根底のところで安心して家庭で安らぐことが出来ます。 家族皆が平等に人権を守られ、お互いを尊重し合いながら成長するでしょう。 そうして自己肯定感は自然に養われていくのだと思います。 もしも誰もが心を休める場であるはずの家庭が、このパワーゲームに支配されていたとしたら、家庭は決して心の安まる場にはならず、子どもの自己肯定感は健全
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
今日のわたしに感じるモノ、大きくあって、 ネット上での人格 その2 から、トラックバックいただきです。 今日、わたしは、自分が日常的に出入りしているサイトの掲示板で、 ある投稿を入れました。 入れる前に、 (ここに来るのも最後かもしれない)と覚悟を決めました。 スレッドは「泣き記事」です。 流れとして求められているのは「慰め」です。 しかし、わたしは「叱咤」を入れました。 理由は、「納得いかなかった」から。 スレ主がネットの友達から「慰め」が欲しいのはわかる。 でも、このスレッドの文章では、 大事なとこを突っこんで考えているとはわたしには思えなかった。 自分が起こしたことには、 その失敗の中からきちっと自分で拾わなくてはいけないことがたくさんある。 その手伝いをするならば、いくらでもしたいと思う。 でも、そのスレッドのその状態は、慰めを求めていて、 他の人がどうであれ、 わたしには「そうよ
2007年02月13日 人を「嫌う」ということ(その1) こないだの記事はネタだ。ただ、書き方はまるっきりネタだが、内容についてはそんなに考えてることとずれていない。 今日は「人を「嫌う」ということ」について書いてみようと思う。 まず、ブロガーについてなんだが、「嫌い」なブロガーってのはいない。これは、id:umeten さんの考えとほぼイコールだ。2007/02/11 12:38 umeten しかし、嫌いなブロガーってのは、普通目にしないし読まないものなのであんまりいないものなのでは?それでもブクマ数ゆえに目に付く場合に気に障るようになるとか。 はてなブックマーク - suVeneのあれ: 嫌いな(ハテナの)ブロガーの ID を挙げようぜ! (抜粋)先ほどもいったように「嫌い」なブロガーなどは「あんまりいない」というか、つまらん記事と判断したり、何いってんだこいつ?って思う記事はそもそ
うつ病の人に「頑張れ」と言ってはいけない、ということはすでに社会常識に近いレベルに達している基礎知識だ。うつに限らずガンなどで闘病している人などにも「頑張れ」という励ましはタブーとされているらしい。 「頑張れ」ではなくてもそれに意味が近い言葉も、追い詰められている本人にとっては辛い。十分頑張ってきたのに、これ以上どうしろというのかという気分になる。 じゃあどんな言葉をかければいいのか、ということは、患者本人がどういうタイプかとかうつでもどのような状態にあるのかとか、それまでの人間関係とか、いろいろ関わってくるので一概には言えない。 勿論「心が弱いからだ」「気合が足りない」「みんな悩みはある」などという暴言を吐く輩は問題外だ(でもそういうことを言うやつは直らないしなくならないんだよなー)。 かようにうつ病患者への対応としての「禁句」=頑張れ禁止は有名ではある。どんな書物を読んでも大抵書いてあ
「heartbreaking.:俺は、みのもんたじゃない。メンヘラーのお悩み相談コメントを撲滅したい。」を読んで。 funamushi2氏はこの記事でコメント欄におけるご自分の意見を書かれているわけである。氏が言われる事は尤もであるのだが、氏もコメントでは「価値ある誰かの体験談を聞き逃してしまう可能性」がある事を残念に思っているようだ。それならば、この様な記事は書かぬが良いと思ったのだが、矢張り対応に困る事を分かって欲しいと思ったのだろうな。違っていたら申し訳ないのだが。 コメント欄を開放していない私が言う事ではないだろうが、私ならば何か長文で自分語りをコメント欄でされても、一言で「そうですか。それはお辛いでしょうね」で済ませてしまうかもしれないな。それで「冷たい」だの「非人間的」だの言われたとしても構わない。今の私は「あなたはこんな人なんだな」とレッテルを貼られても「どうぞ、お好きなよう
人間誰しも「普通じゃない部分」を持っている。それはいいのだ。 でも「あ、俺のココは変なのかも知れないな」という感覚は持っていなければいけない。こういう所は「一般的に見て」変なのかも知れないということだけ、なんとなく把握していれば良い。それを把握さえしていれば、別に「変」でも構わないと思う。 困るのは、自分の変な部分を自覚せずに、それが普通だと思い込み、社会生活で「変」なことを平気でする人。さらに、それを他人に押しつけたり。 これは迷惑だし、結果的には本人にとって損だと思う。 結局、そういう人って「周囲を見て、そこから自分を判断する」ってことをしない。そう考えると、よく言われる「空気読め」につながるんだけど。 よくアーダコーダ言われるのが「『空気読め』という言い草の是非」なんだけど、是非もへったくれもない。空気の読めないやつは「損」をするという事だと思う。 空気の読めない人が「空気読め」とい
「野ブタ。をプロデュース」は見たことがありません。 ありませんので、ここを「電車男」として読み替えますと、、、 マジョリティはメジャー化したマイノリティしか支持しない-日々是自己主張 マイノリティ=非モテとか、そういうことになると思いますが、 Akkyさんのばあいこのエントリのメインはむしろ判官贔屓以降の後半ですよね。 ARTIFACT ―人工事実― | ネットでは一般人の悩みに答える一般人のやさしさが商品化されるから来て『いやいやそれにはコメンテイター側の代償行為という側面もあったりするわけで、注意と配慮が必要なのかもしんまい』的エントリ返しなのだと推測します。 で、 俺様至上主義:RinRin王国さんはいつも興味深い記事を貼ってくれる ではむしろサブの前半部分にとてもシンパシーを感じたわけですよ。「あー俺ってまさにそんな感じだよな」と。おい誰か支援しろよマジで。ぶっちゃけクリスマス近い
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