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2010年1月6日のブックマーク (5件)

  • In the Strawberry Field:エントリー “被害者だからって自衛論を否定する権限があるのか?”

    私は911事件で家族を失った人や、イラクやアフガニスタンで息子や夫やを失ったという人が、あたかも自分が対テロ政策の専門家になったような口を聞くのにはかなり頭にきていた。自分が被害者だからとか当事者だからというだけで、突然その人間がテロの専門家になれるという意識が理解できない。同じように、自分が犯罪の被害者になったことがあるというだけで、突然犯罪学の専門家にでもなったつもりで「自衛論を説くな」とか命令する輩には、はっきり言って私は非常な憤りを感じる。 あんたら、何様のつもりよ?あんたらのくだらない犯罪論のせいで、防げるかもしれない被害が防げずに、被害に合わなくてもいい人が被害にあったら、どういう責任をとってくれるわけ? 自衛論は被害者を傷つけるって?セカンドレイプだって?何を根拠にそんないい加減なことをいってるわけ? こういうことを言う人たちってのは、自衛は個人に責任があるという主張をする

    norton3rd
    norton3rd 2010/01/06
    周回遅れの新キャラどころじゃない。一連の議論の中で一蹴された話を増幅してぶり返している。つーか一連の議論の中身を一つも読んでないのでは
  • 社会政策・労働問題研究の歴史分析、メモ帳 「やりがい搾取」の構造は互酬の否定である報酬拒否から生まれる

    社会政策・労働問題研究について歴史的なアプローチで研究しています。ここではそのアイディアやご迷惑にならない範囲で身近な方をご紹介したいと考えています。 今回のエントリは多分、その筋の人たちにとっては衝撃的な内容だと思います。しかし、あえて書きます。一連の濱口先生の「働くことを報酬にしてはならない」論で攻撃されていたのは、「やりがい搾取」の雇う側の人たちでしたが、私はまったく逆に、ある種のボランティアの人たちに批判を加えようと思います。そういう人たちがいるからこそ「やりがい搾取」が起こるんだと言いいたいのです。なお、私は原理原則を分かりやすくするために、かなり極端な例を使って説明しています。 19世紀末に社会事業が巨大化してくると、必然的にある程度の官僚化が起こります。ここでの「官僚化」とは社会事業の専門ノウハウをもった人が恒常的に必要になる事態を意味します。そうなると、手弁当ではやってられ

  • なごなぐ雑記: 誘致派の誕生(3―1)

    1972年、沖縄の施政権は米国から日国へ返還された。沖縄の各自治体は地方自治法の枠内に入り、それぞれ「総合計画」づくりに着手する。1970年に一町四村が合併して市制施行したばかりの名護市も同様である。 1973年6月に市議会の議決を経て確定した「名護市総合計画・基構想」は、「逆格差論」と呼ばれ注目を浴びた。 沖縄振興開発計画で「格差是正」が叫ばれ、沖縄が官民あげて開発へと突き進む中にあって、名護市は土と沖縄(都市と田舎)の「格差は逆である」というテーゼを掲げ、豊かな自然や地場産業を守り発展させていくまちづくりの青図を描いた。現在なら「内発的発展」というもっともらしい名前をいただいている地域づくりの手法・概念・思想だが、1970年代初頭としてはかなり斬新で画期的な「地域主義」の宣言であった。 名護市がそのような総合計画を持つに至った背景は、土復帰に伴う沖縄島北部の開発ラッシュによる

    norton3rd
    norton3rd 2010/01/06
  • なごなぐ雑記: 誘致派の誕生(3―2)

    「逆格差論」から180度転換する比嘉鉄也市政は、1997年に比嘉氏が市民投票の結果とは真逆の表明を行いセルフリコールするまで三期11年間続いた。 この間に、計画された開発事業は第三セクター方式で始まった三共リゾート開発をはじめ、名護湾を活用したウォーターフロント構想など計画策定に大金の税金が注ぎ込まれたが、そのすべてが事業化されず消えた。 唯一、比嘉市政において成立した事業は「名桜大学」の創設であり、継続している事業はずさんな経営体質の問題を抱えたネオパークぐらいであった。 名護市の企画部長であった岸建男氏は名桜大学創設の立役者であり、その功労をもって比嘉鉄也市長が彼を助役にしたのが1994年である。 名桜大学の創設資金は名護市の財政力では到底調達不可能だったが、岸建男氏は1992年に制定されたばかりの「地方拠点都市整備法」を活用し、名護市の財政力以上の有利な借金をすることで資金調達を

    norton3rd
    norton3rd 2010/01/06
  • なごなぐ雑記: 誘致派の誕生(3―3)

    1997年の市民投票以来、新基地建設への反対と条件付賛成派に二分され、選挙のたびに名護市民は戦ってきた。「過去3度の市長選で民意は出た」と島袋ヨシカズ市長はいうが、基地を押し付ける政府ですらが見直しに入っている辺野古移設に固執するヨシカズ市長らの姿勢は基地の「誘致派」としかいえない。 これまでみてきた名護市の歴史を振り返りながら、現在・未来の名護市を展望して稿を終える。 1970年に一町四村が合併してできた名護市は、復帰そして海洋博という世替りと開発の荒波に対して「地域主義」を掲げ、自然保護と生活・生産基盤の確立、住民自治を原則にまちづくりをはじめた。70年代から80年代半ばまでは名護市の「基盤整備期」といえるだろう。その時期に名護市総合計画がもっていた「足元を掘る」精神は、ハードとしては市庁舎に表現され、ソフトとしては字史づくりなどの形で地域から学び地域に深く埋め込まれていった。 19

    norton3rd
    norton3rd 2010/01/06
    これは一筋縄ではいかない。なごなぐさんモロに渦中の人だし・・・。とりあえず身体第一で無理をなさらんよう