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ブックマーク / miyagi.no-blog.jp (11)

  • 2011年3月8日 琉球新報 朝刊3面掲載 「メア氏講義メモ(日本語訳)全文」(PDF)

    【2011 年 3 月 8 日 琉球新報朝刊 3 面】 ケビン・メア米国務省日部長(前在沖米総領事)昨年 12 月、米国務省内で大学生に対して行 った講義を記録したメモの全文は以下の通り。 メア氏講義メモ(日語訳)全文 私は2009年まで在沖米国総領事だった。日にある米軍基地の半分は、沖縄にあると言わ れているが、その統計は米軍のみが使用している基地だ。もし日自衛隊と米軍が共同使用し ている基地を考慮すると、沖縄の基地の割合はかなり低い。議論になっている在沖米軍基地は、 もともと田んぼの真ん中にあったが、今は街の中にある。沖縄人が、基地の周囲を都市化し、人 口を増やしていったからだ。 在沖米軍基地は地域の安全保障のために存在する日米安保条約下の日の義務は基地のために 土地を提供することだ。安保の下での日米関係は不均衡で、日にとっては有利だが、米国にと っては損失だ。米軍が攻

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    norton3rd 2011/03/08
    メリケンじゃこういう輩でも外交官になれるのか・・・とは言え我が朝のそれがどうかというと自信はない
  • なごなぐ雑記: なごなぐ敬白

    謹啓 なごなぐ雑記を始めた当初は、沖縄県そして名護市が政府と共に新基地建設を推進している状況でした。問題点の惨さをどうにか発信していかなければと、拙い思考と文章と落書きで手探りしてきました。市議選挙で落選し公的立場を離れて後も、政権交代に一縷の望みを託し自民党政府への批判に尽力しました。 名護市を離れて三年余になりますが、その間に政権交代があり、名護市も基地建設に反対する市長が誕生しました。 97年の市民投票の結果が裏切られることで私が火だるまになってこだわってきたことは、名護市という地方公共団体が市民の意を受け「反対」を明確にしたことでひとつのメルクマールを超えました。「なごなぐ雑記」に私が付与していた役割も然りです。 私が書ける新基地建設の問題点などは、すでに過去エントリーで書き尽くしました。なごなぐ雑記を終えることにします。終えるといっても可能な限り、過去エントリーが参照できるよう放

  • なごなぐ雑記: 状況に対する雑感

    誤解を招きそうだが、まったき個人の意見として、あまり整理もせずここに書いておく。 私は、鳩山首相やなんとかいう名前の官房長官の発言に、あまり怒ってはいない。かといって哀れんだり蔑んだりもしていない。 冷静に考えて、私が思うに追い込まれているのは日政府である。米国は地元同意がないプランに対しては交渉のテーブルにもつけない趣旨の発言をしているらしい。かっこつけやがってと思いもするが、日政府のほうが赤子と大人ほどレベルが違いすぎる。沖縄が、シュワブ陸上案や与勝沖埋め立て案で同意する道筋はない。 「少なくとも県外」と発言してきて、何ゆえにこんな出口に出るしか脳がないのか。不思議である。日政府は米国と、日国民が知らされていない決定的な「密約」を米国としているのではないかと疑いたくなるほどである。 「復帰」の際の「5.15メモ」などに明らかな、沖縄の米軍基地の自由使用などの日米合同委員会合意を

  • なごなぐ雑記: 新生・名護市へ捧ぐ

    名護市長選挙の結果を受けてなお、「ゼロベース」などという用語を繰り返し、政府は「辺野古」を手放さない。これまでの地元(行政的には名護市という基礎自治体)受入れという新基地建設の実現可能性の根幹が変わったのに、旧来のプランを残すことに固執する姿勢はゼロベース思考ではない。 首相は選挙前に「選挙結果も斟酌して」と発言していたのに、選挙結果が出たら官房長官が「斟酌する必要はない」などと言辞を吐く態度は、政府は「民主主義」的ですらないと公言しているに等しい。 市長選挙はもちろん住民投票ではない。しかし、名護市長選挙において新基地建設問題が大きく問われていたのは事実であり、当選した稲嶺進氏は「辺野古に基地はつくらせない」と公約し当選したことも周知の事実である。 ここで天下国家を論ずるつもりはないが、いよいよ政府は追い詰められている。 ■「変化」への市民の期待 市長選挙の最終結果は、稲嶺ススム17,9

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    norton3rd 2010/01/27
    つかの間でも休息して欲しいなごなぐさんを怒らせるバカ官房長官
  • なごなぐ雑記: ありがとう

    まだ投票箱は開いてもいないが、マスコミ各社が競って稲嶺ススム当確を打っています。間違いないだろうと信頼し、今日一日の緊張を解きます。 名護市民のみなさん。おめでとうございます。みなさんの一票一票が切り拓いた、新しい「まちづくり」へのスタートです。1977年の市民投票から13年。長くかかったけど、これでやっと主権者の意思決定と、市の意思決定をあわせることができる。ほんとうに名実共にノーサイドです。 比嘉鉄也さん、末松文信さん、島袋吉和さん、ほんとうに長い間の市政の舵取り、おつかれさまでした。大先輩に、若輩者が失礼な物言いばかりですみませんでした。 建男さん、私は鉄也さんが言うように死んでしまった人の考えや心を忖度することはしたくありません。でも、1999年と明らかに政治情勢も変わっています。沖縄に新たな移設先を沖縄が探すときではありません。あなたなら情勢の変化の中できっとそうしたであろうよう

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    norton3rd 2010/01/25
    こっからがまた大変。だけど今はとりあえず、『お疲れさん』。つかの間でもゆっくりしてくれや
  • なごなぐ雑記: 誘致派の誕生(3―1)

    1972年、沖縄の施政権は米国から日国へ返還された。沖縄の各自治体は地方自治法の枠内に入り、それぞれ「総合計画」づくりに着手する。1970年に一町四村が合併して市制施行したばかりの名護市も同様である。 1973年6月に市議会の議決を経て確定した「名護市総合計画・基構想」は、「逆格差論」と呼ばれ注目を浴びた。 沖縄振興開発計画で「格差是正」が叫ばれ、沖縄が官民あげて開発へと突き進む中にあって、名護市は土と沖縄(都市と田舎)の「格差は逆である」というテーゼを掲げ、豊かな自然や地場産業を守り発展させていくまちづくりの青図を描いた。現在なら「内発的発展」というもっともらしい名前をいただいている地域づくりの手法・概念・思想だが、1970年代初頭としてはかなり斬新で画期的な「地域主義」の宣言であった。 名護市がそのような総合計画を持つに至った背景は、土復帰に伴う沖縄島北部の開発ラッシュによる

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    norton3rd 2010/01/06
  • なごなぐ雑記: 誘致派の誕生(3―2)

    「逆格差論」から180度転換する比嘉鉄也市政は、1997年に比嘉氏が市民投票の結果とは真逆の表明を行いセルフリコールするまで三期11年間続いた。 この間に、計画された開発事業は第三セクター方式で始まった三共リゾート開発をはじめ、名護湾を活用したウォーターフロント構想など計画策定に大金の税金が注ぎ込まれたが、そのすべてが事業化されず消えた。 唯一、比嘉市政において成立した事業は「名桜大学」の創設であり、継続している事業はずさんな経営体質の問題を抱えたネオパークぐらいであった。 名護市の企画部長であった岸建男氏は名桜大学創設の立役者であり、その功労をもって比嘉鉄也市長が彼を助役にしたのが1994年である。 名桜大学の創設資金は名護市の財政力では到底調達不可能だったが、岸建男氏は1992年に制定されたばかりの「地方拠点都市整備法」を活用し、名護市の財政力以上の有利な借金をすることで資金調達を

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    norton3rd 2010/01/06
  • なごなぐ雑記: 誘致派の誕生(3―3)

    1997年の市民投票以来、新基地建設への反対と条件付賛成派に二分され、選挙のたびに名護市民は戦ってきた。「過去3度の市長選で民意は出た」と島袋ヨシカズ市長はいうが、基地を押し付ける政府ですらが見直しに入っている辺野古移設に固執するヨシカズ市長らの姿勢は基地の「誘致派」としかいえない。 これまでみてきた名護市の歴史を振り返りながら、現在・未来の名護市を展望して稿を終える。 1970年に一町四村が合併してできた名護市は、復帰そして海洋博という世替りと開発の荒波に対して「地域主義」を掲げ、自然保護と生活・生産基盤の確立、住民自治を原則にまちづくりをはじめた。70年代から80年代半ばまでは名護市の「基盤整備期」といえるだろう。その時期に名護市総合計画がもっていた「足元を掘る」精神は、ハードとしては市庁舎に表現され、ソフトとしては字史づくりなどの形で地域から学び地域に深く埋め込まれていった。 19

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    norton3rd 2010/01/06
    これは一筋縄ではいかない。なごなぐさんモロに渦中の人だし・・・。とりあえず身体第一で無理をなさらんよう
  • なごなぐ雑記: 岡田外相対話集会で激白。海兵隊がグアム行って空っぽになっても普天間は、新基地建設なければ返さない。えっ?

    岡田外相対話集会で激白。海兵隊がグアム行って空っぽになっても普天間は、新基地建設なければ返さない。えっ? 先週末から昨日にかけて、ある「会議」に参加するため二泊三日で名護市にいた。岡田外相が名護市に来たり状況がドラスティックに動き続ける中での「会議」だったが、そのような状況とは決して無縁ではないテーマをめぐって、韓国や日、沖縄の研究者や活動家が話し合うとても有意義な「場」だった。「名護会議」と名づけられたその会議についての報告は後日改めて、拙ブログでも行う。 岡田外相が名護で行った「市民との対話集会」については、小説家の目取真俊さんがその全容をテープ起こしなされて自身のブログで公開している。とても貴重な記録である。ぜひお読みいただきたい。下記リンク先からはじまり、7まで続いている。岡田外相と「市民との対話集会」 全面公開 1市民と対話した、説明を尽くしたというアリバイのごとき「場」にしよ

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    norton3rd 2009/12/08
    『なんでもかんでもごっちゃにして物事を複雑にしてパッケージで押し切ろうなどというのが大間違いの源』今までまさにそういうやり方でグズグズに押し切ってきた自民党政治のやり方を踏襲しようというのかねえ
  • なごなぐ雑記: 全国のそして全世界の友人へ贈る

    吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる 波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は 米軍占領に引き続き 一九五二年四月二八日 サンフランシスコ「平和」条約第三条により 屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した 祖国日は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ 全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた見よ 平和にたたずまう宜名真の里から 二七度線を断つ小舟は船出し 舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ今踏まれている 土こそ 辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ一九七二年五月一五日 沖縄の祖国復帰は実現した しかし県民の平和へ

  • なごなぐ雑記: 岡田外相は沖縄県民を恫喝するために来沖したのか?

    先週、アメリカのオバマ大統領が来日した。「基は守るべきだ」という言葉が出たらしい。いかなる「基」なのか、デモクラシーであれば新基地建設について名護市は1997年に有権者による市民投票を行い、基地建設反対多数で決している。アメリカの基的姿勢であれば「望まれないところに基地は置かない」という基に沖縄の米軍基地は大いに反している。 普天間飛行場の問題に関してアメリカ側は「柔軟」などの見出しが新聞に載ったが、オバマ大統領の発言要旨からは、そのような姿勢は垣間見えない。先週末はゆっくりメディアに接することもできなかったが、感想めいたことを日記に記しておいた。→nagonaguの日記 岡田外相が駆け足で沖縄に来て、県知事や名護市長らと会って「土」に帰っていった。今朝の新聞をみて、私は我と我が目を疑った。「県外を困難視」(新報09.11.16)しているのは嘉手納統合を検証しつぶしにかかっている

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    norton3rd 2009/11/17
    『ぺしゃんこにされてもへこたれないぞ。』
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