青弓社ライブラリー 99 総中流の始まり 団地と生活時間の戦後史 社会一般 渡邉 大輔(編著) / 相澤 真一(編著) / 森 直人(編著) / 東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブ研究センター(編) 四六判 176ページ 並製 定価 1600円+税 ISBN978-4-7872-3462-9 C0336 在庫あり 書店発売日 2019年11月25日 登録日 2019年10月17日 紹介高度経済成長期の前夜――総中流社会の基盤になった「人々の普通の生活」は、どのように成立したのか。1965年の社会調査を復元して再分析し、労働者や母親の生活実態、子どもの遊びや学習の様子、テレビと一家団欒など、「総中流の時代」のリアルを照射する。 解説高度経済成長期の前夜――労働力が都市に集中していき、核家族が増えていくなかで、日本は「総中流社会」と言われた。では、総中流の基盤になった「人々
2019年9月13日 著作権エンタメ 「ミッキーマウスの著作権保護期間 ~史上最大キャラクターの日本での保護は 2020年5月で終わるのか。2052年まで続くのか~」 弁護士 福井健策 (骨董通り法律事務所 for the Arts) 米国では2023年に保護期間終了 ミッキーマウスの著作権だが、米国ではついに2023年に切れる。 あの国の保護期間の計算は(比較的)単純で、古い作品の保護は発行後95年で消滅する。ミッキーマウスのデビュー作は一般に1928年の『蒸気船ウィリー』と言われているので、95年後の2023年末という訳だ。 著作権が切れてパブリックドメインとなれば、基本的にはどんな利用も無許諾で自由だ。ミッキーマウスのフリー化は、間違いなくフィーバーを巻き起こすだろう。既に報道も始まっている。 ただし、注意点が3つ。 第一に、著作権が切れるのはオリジナル・ミッキーや初期映像だけだ。そ
昔から不思議でならなかった。 一体、世の中のおっさんは、何が楽しくて生きているのか、さっぱりわからなかった。 よく考えると、若い頃は、まあまあはっきりと自分が若いということを自覚していて、若いあいだにしか楽しめないことがあるとわかっていた気がする。 激しい恋愛とか、長期の旅行とか、遅くまで飲み歩くとか、朝まで踊るとか、徹夜で文章を書いて昼まで寝るとか、例えばそういうことだ。 だから昔から40代になったら人生は終わりだなと思っていて、実際に自分の周りの40代の男性というのは本当に大変そうで、そしてつまらなさそうだった。 実際にぼくは40代を目前にして、これからの人生に全然期待が持てなくて、生きる意味を見失っていた時期があった。 家庭に給料を持ち帰るだけのATMと化して、仕事では若手に活躍の場を追われ、出世競争に負けて生きる屍となり、なんの生産性もない趣味や遊びに逃げ、命の残り時間がただ減って
文:小沼理、写真:山田秀隆 伊藤亜紗(いとう・あさ) 1979年生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学三年次より文系に転向。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(文学博士)。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版)、『どもる体』(医学書院)など。 正確なメモを取る全盲の女性の「体の記憶」 ——『記憶する体』(春秋社)では全盲や、片腕、片脚がないといった様々な障害がある12人の方にお話をうかがい、その体の使い方を分析しています。最初の章で紹介されていた西島玲那さんは、全盲だけど正確なメモを取りながら話をすると書かれていて、単純にすごいと感じました。 西島さんの場合はただ文字を書くだけではなく、前の箇
「ブス」とは何か? 「ブス」という言葉は重く思われすぎ? 新刊『ブスの自信の持ち方』を上梓した作家の山崎ナオコーラさんにインタビュー。「『ブス』という言葉をあえて使いたかった」という思いの背景にあるものとは――。 (取材・文:小野美由紀、写真:林直幸) 「差別がある世界で生きている」ことに自覚的でありたい ――少し前に、ネットメディアの記事で「カルチャー顔」という言葉で容姿を表現されたミュージシャン本人がSNS上で抗議し、記事が炎上し書き手が謝罪するという出来事がありました。 メディアと個人がフラットな関係になってきたからこそ、容姿などについて「差別された」と感じた側が抗議しやすい社会になっているのではと思うのですが。 山崎:今は個人の考えが発信しやすくなっているから「こういうのが嫌だ」という違和感がすくい取られるようになってきている。 私は時代の中で仕事をしているので、今の時代だからこ
社会学者・岸政彦さんの著書『図書室』──三島賞候補となった小説「図書室」と自伝エッセイ「給水塔」が収録されている。なぜ小説で女性を書いたのか? 男性には内面がないのか? 「図書室」の話から次回作の構想まで、岸さんが縦横に語る。 マジョリティには「自己」がない? ──6月に発売された『図書室』は三島賞候補にもなり、発売即重版とかなりの話題作となっています。 岸:今回の作品は、女性一人称で書く、というところでだいぶ悩みました。 最初に「男でも女でもなくて、一人の人間が団地で暮らしていて、窓から見下ろすと雨が降っていて」というシーンが浮かんで、そこから始まったんですよ。で、そこから書く時、あくまでも僕個人の感覚なんですけど、男性一人称で書こうとすると、どうしても個人の内面みたいなものが、なぜか書けなくて。 「ビニール傘」の主人公には人格がないんですね。あれは「俺」って視点は定まっているんだけど、
岸政彦さんへの『図書室』刊行記念インタビュー(前編はこちら)。後編では、大阪や沖縄が好きな理由、「体張って生きてる人が偉い」という信仰、他者理解をめぐる困難について──。 ──岸先生のエッセイにも、小説にも、社会学者として収集しておられる「匿名の個人の生活史」への眼差しが多く反映されているように感じます。個人の生活史にご興味を持ち始めたのはいつからですか? 岸:もともと『ROCKIN'ON JAPAN』って雑誌、あるじゃないですか、あの副編集長が昔出してた『ポンプ』っていう、薄い、最初から最後まで読者投稿欄だけの雑誌があったんですよ。そこに長文からハガキの小ネタまで、なんでも載ってたんですよね。写真やイラストとかも。匿名の人たちの、なんでもない文章やメッセージがたくさん載ってて、それを読むのが好きだったんだよね。他にもスタッズ・ターケルっていう、オーラルヒストリーだけを並べて分厚い本を書く
人は死ぬ。せいぜい100歳で死ぬ。われわれはそれゆえ、いくら熱心に学習しても、多くのことについて中途半端で、よくわからないまま消えていく。にもかかわらず、選挙の投票ひとつ取ってもわかるように、われわれはまた、しばしば世界や社会という大きなものについて考え、行動し、発言しなければならない。 そのときに、頼りになるもののひとつが《評論家》の仕事である。評論家は、専門的な知見を参照しながら、おおまかな見取り図や全体像を提供してくれる。日々の生活や仕事に忙殺されるひとびとも、それを手がかりにすれば、世界や社会の動きをざっくり見通すことができる。 しかるに今日、評論家の仕事は不遇といわざるをえない。ときに《専門家》によって間違い探しをされ、さらに進んで、その存在、人格まで否定されることさえある。 なるほど、評論家の仕事には粗があろう。しかし、それは広い分野を取り扱っているのだから、ある程度やむをえな
劣等感とはいうけれど、それなら誰を私は優れていると思っているのだろう、理想の私に体を入れ替えることができるなら、喜んでそうするってことだろうか? 劣っていると繰り返し自分を傷つける割に、私は私をそのままでどうにか愛そうともしており、それを許してくれない世界を憎むことだってあった。劣等感という言葉にするたび、コンプレックスという言葉にするたびに、必要以上に傷つくものが私にはあったよ、本当は、そんな言葉を捨てたほうがありのままだったかもしれないね。コンプレックス・プリズム、わざわざ傷をつけて、不透明にした自分のあちこちを、持ち上げて光に当ててみる。そこに見える光について、この連載では、書いていきたい。 音楽を崇拝できるか。音楽に救われたと断言できるか。信じられるか。価値観を委ねられるだろうか。それは全てNOである私に「音楽が好き」と言う権利はあるのだろうか。切迫していない、というコンプレックス
アメリカでは、メンタルヘルス(心の健康)を保つためのカウンセリング・クリニックが身近な存在にある。人生のライフハック術として、症状が悪化する前に、1人はもちろんのことカップルや夫婦、時には子連れで「カウンセリングに行ってきた」なんていう話は、日常的によく聞く。 移民の多いニューヨークには、慣れない外国生活に適応するためのプログラムも各種提供されている。 中でも、ハミルトン- マディソン・ハウス* の日本部門「日米カウンセリングセンター」は、日本人の心理療法士が常駐し、当地に住む日本人の心のケアや精神的問題に日本語で対応している。 センター長で心理療法士の松木史さんは、1983年の日本部門創設時から36年間、ずっと在留邦人の心のケアをしてきた。5年のキャリアを持つ心理療法士、竹島久美子さんと共に、患者から「心の拠り所」として信頼を寄せられている。 2人のカウンセラーに、アメリカのセラピー事情
自殺ほう助―または安楽死―スイスにはエグジット外部リンク、ディグニタス外部リンクという2つの主要な自殺ほう助団体がある。それはひとえにスイスの特異性の表れであり、刑法115条のおかげだ。刑法115条は、自殺ほう助の介助者が罰せられるのは「利己的な動機のために」行われた場合のみ、と定める。それが認められなければ、処罰されることはない。例えば倫理的、人道的、特に非営利的な理由が認められる場合は処罰されない。 80年前、スイスの刑法に規定されたこの条項は、当時の思想を反映している。立法府は「良かれと思ってした」人が罰せられる可能性を排除したかったのだ。例えば「一般的な犯罪」で独房に拘留中の士官のために、友人がこっそり銃を届ける場面を想像してほしい。士官がその銃を使って、自死できるようにーという理由で。 スイスのドイツ語圏日刊紙ターゲスアンツァイガーはのちに「死のビジネスモデル」という身震いするよ
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