しとしとぴっちゃん 久々に禅問答をひとつ。 ある雨の日、老師が修行僧に問いました。 「門の外の音は、何だ?」 「雨だれの音です」 すると老師は言いました。 「およそ人は錯覚してさかさまに考え、自分に迷って物をおいかけているな」 「では、老師、あれは何の音ですか?」 「おっと、もう少しで自分に迷うところだった」 修行僧はさらに問います。 「もう少しで自分に迷うところだったというのは、どういうことです?」 老師はおもむろに答えます。 「解脱してさとりの世界に入ることは簡単だが、それをそのまま言葉で言うのはむずかしいな」 さて、この問答、例によって解釈は様々でしょうが、私はこう考えます。 一般に「あれは何だ?」という問い方と、それに対する「あれは〇〇です」という答え方は、「あれ」と指示される「対象」がそれ自体で存在していて、それを眼や耳などを通じて感受した自分が、「精神」を正しく使用して、対象の