言葉と体験 「仏教とは根本的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、 「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(本人にも)わかりません。 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ