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ブックマーク / indai.blog.ocn.ne.jp (45)

  • 恐山あれこれ日記: 言葉と体験

    言葉と体験 「仏教とは根的に言葉の問題だ」という言い方を時々していると、必ず「体験主義者」的人物から、同じような反論を繰り返し聞かされます。いわく、 「あなたは空の青さを言葉で言い尽くせますか? 無理でしょ。仏教の真理や悟りもそれと同じです。体験しない限り決してわからないのです」 たとえ上を向いて空の青さを見ていても、彼がそれきり何も言わなければ、「空の青」を見ていたかどうかさえわかりません。彼が「ああ青いねえ」と言い、別人が「そうだねえ」と言わない限り、「空が青い」かどうか、誰にも(人にも)わかりません。 何をどう体験しようと、体験それ自体は、徹頭徹尾、無意味なのです。「意味」を作り出すの言語であって経験ではありません。 他方、言語はそれが語ろうとする当の対象に原理的に届きません。「私」という言葉が、自分以外のすべての人物にも使われていることを考えれば、一目瞭然でしょう。「今」「ここ

    恐山あれこれ日記: 言葉と体験
  • 恐山あれこれ日記: 頭を「空」っぽに

    頭を「空」っぽに 「あなたは、仏教の思想は、根的に言語の問題だと言ってますが、どういうここですか」 「私は、仏教においては『「空』という考え方が、もっともオリジナルでユニークだと考えています。その場合、『空』とは、 一、存在するすべてのものには、それがそのようにあるいかなる根拠もないこと、つまり、そのものがそのままであり続けること(同一性)を保証するもの、すなわち『実体』とか『質』と呼ばれるようなものを想定しないことであり、 二、にもかかわらず我々が『存在する』と言表できるのは、『存在している』とされるものが、その ものではないものとの関係において成立していて、その関係性が暫時維持されて いる(縁起)からだ、 と考えることです。 たとえば、『机』は、机そのものに『机』である根拠が『質』として内在しているのではなく、我々が『机』として使うという関係性が、そのものを『机』にしているにすぎ

    恐山あれこれ日記: 頭を「空」っぽに
  • 恐山あれこれ日記: 「物語」の欲望

    「物語」の欲望 私がものを考えるとき、不可欠の前提としていることが三つあります。 一つは、意識と言語の起源については、原理的に知りえない、ということ。 第二に、死についてのすべての言説は、死とは関係ない、ということ。 第三に、にもかかわらず、起源と死を語る欲望を否定しないこと。 一について。 意識が意識の起源を意識し、言語が言語の起源を語ることは、原理的にできません。意識の起源を意識化でき、言語の起源を言語化できるとなれば、その起源はすでに意識のうち、言語の中にあるのであって、それは起源などと言うまでもなく、要するに意識であり言語であるに過ぎません。  およそあらゆる事象の起源はすでにその事象に含まれているわけだから、事象の起源を問うとは、起源の起源を問うことになり、無限遡及かトートロジーになるしかないでしょう。 逆に、もし事象の起源が事象の外にあるなら、それはもう「事象の」起源ではありま

  • 恐山あれこれ日記: 方法主義「真理」論

    方法主義「真理」論 「真理」そのもの、「事実」それ自体などというものは、存在しません。存在するのは、「真理だと思ったこと」「事実として認めたこと」です(何であれ人間の頭で理解できる言葉で表示するしかない以上、そうなるでしょう)。 ならば、「真理」や「事実」を語るということは、どうしてそう思ったのか、いかにしてそう認識したのかを語ることでなければなりません。すなわち、いかなる方法を使用して「真理」や「事実」を構成したのかを明らかにすることが核心的な意味であるはずなのです。 この事情は、「宗教的真理」だろうが「科学的真理」だろうが同じです。そこに至る方法が語られてはじめて、「真理性」と「事実性」が方法限定的に担保されるわけです。 方法を語ることとは、「科学的真理」なら理論構成や実験過程などの検証、「宗教的真理」ならば超越的存在の証明や修行方法との整合性の確認などを意味するでしょうが、これは所詮

  • 恐山あれこれ日記: 頭を涼しく

    頭を涼しく 最近、巷では、あちこちで「成長」の大合唱が聞こえてきます。どこぞの洋服店の社長などは「成長か死か」などと、脅迫めいたことを言い出しているらしく、ずいぶん物騒な世の中になったものです。 ところで、この「成長」とは、要するに「経済成長」のことであって、「社会の成長」にも、むろん「人間の成長」にも関係ありません。 今のところ見えている「経済成長」路線は、世に大量の金を溢れさせ、一種の麻薬的興奮状態を「元気」と錯覚させて時間を稼ぎ、女性を過労死する男並みに働かせることで、市場の取引規模を膨らませることのようです。 むろん、女性を働かせる程度の市場拡大は取るに足りません。命は、少子高齢化で縮小する市場規模を一気に拡大するため、国内市場を海外市場に直結させ、物と金と人の流れに制限をなくすことでしょう(すなわち「グローバル化」の推進)。 そうすると、経済は無国籍化しつつ拡大していくのに、い

  • 恐山あれこれ日記: 「終わり」は始まったのか?

    「終わり」は始まったのか? 少子・高齢化がこのまま進行する場合、日仏教における「檀家制度」が遠からず崩壊するか、少なくともいちじるしく脆弱になるのは確実で、したがって、これを基盤とするいわゆる「伝統教団」が消滅同然となるか、大きく組織構造を組み替えない限り存在意義を失うであろうことは、最早明らかです(ひと言おことわりしますが、私は「檀家制度が無くなった方がよい」と考えているわけではありません)。 この事実は、「伝統教団」にとっては一大事ですが、仏教にとっては特に問題ではありません。その存亡などは、仏教2500年の歴史からみれば、些細なエピソードです。 しかし、以下の報告は、仏教はおろか宗教も超え、「人間」の存在そのものを根源から問い直し、見方によっては決定的な「危機」に陥れると思います。 昨年、南カルフォルニア大学のセオドア・バーガー教授が、脳における記憶を司る部位である海馬を模倣したI

  • 恐山あれこれ日記: もう一回、短く

    もう一回、短く 第一:輪廻 「私」が輪廻するということは、いかにしても証明できない。昨日の自分と今日の自分が同一の「私」だということさえ、誰も証明できないのだから。 「私」ではないものが輪廻するというなら、そもそも、そんなアイデアを持ち出して論じる意味がない。 第二:当の自分 「当の自分」は認識できない。認識できたものを「当の自分」だと証明する方法がない。 認識できたと主張される「当の自分」は、その認識のたびに、「認識する自分」に対して「嘘の自分」になる。 第三:神 「神は存在する」と言いえるならば、その神は人間と同じになる。人間が使用する「存在する」という言葉が、神に適用されうるなら、それは少なくとも、「絶対者」でも「超越者」でもない。 「神は存在する」と言いえないならば、それは人間が考える対象にならないから、無視してもかまわない。 第四:悟り 「悟り」は無意味である。それが語る

  • 恐山あれこれ日記: それって

    それって その1 「オレ、自己実現したいんだ」 「それって、他人の迷惑にならない?」 その2 「ワタシのありのままを見て」 「それって、ワガママとは違うのか?」 その3 「オレ、夢は決してあきらめない」 「それって、どこがエラいの?」 その4 「ワタシ、絶対後悔しない」 「それって、反省もしないのか?」 その5 「出家したいんです!」 「それって、家出じゃないのね?」

  • 恐山あれこれ日記: 「しょうがない」の精神

    「しょうがない」の精神 以下は、さる地方新聞から、正月用の記事にと寄稿を依頼されて書いたものです。 ここでいまさら、昨年がどんな年だったか、事あらためて言うつもりはない。正月とはいえ、おそらく今年の日人は皆、そう無邪気に「おめでとう」とは言えないのではないか。 あの大震災と原発事故、さらに欧州の金融危機と東アジアの不安定化、さらにはそれらが結果的に露呈した様々な問題に、我々はいよいよ、正面から取り組んでいかなければならない。すなわち、我々は今までよりもっと、がんばらなけれならない新年を迎えたわけだ。 しかし、私がつらつら思い出すのは、震災直後に湧き起こり、ほぼ一年を通じて大合唱になった「がんばろう」に対する、どうも素直になれない自分の気持ちである。 これは私ばかりではなかったようで、たとえば、「被災した人に、あれ以上何をがんばれと言うんだ」と怒っていた知人もいた。だが、私の違和感はそれと

  • 恐山あれこれ日記: 「火」は燃えない

    「火」は燃えない 「火」と言っても、「火」と書いても、それは燃えません。当たり前です。しかし、この当たり前が大事です。 言葉が表示しているものは、あるいは言葉によって表示されているものは、火ではないのです。では、言葉によって表示されえない「火そのもの」があるのか? そんなものは、「当の自分」と同じように馬鹿げた幻想です。「火そのもの」も言葉だからです。以上の事情は、「神」も「真理」もみな同じ。 言葉が表示しているのは、その言葉で表示しようとしているものとの関係の仕方です。ヴィトゲンシュタイン風に言うなら、「火」が意味するのは火ではなく、火の使い方です。 この関係の仕方は、様々な条件付けによって変わりますから、言葉によって語られたことに普遍性や絶対性を求めることは、無いものねだりというものです。 ここでさらに問題なのは、「存在する」という言葉です。そもそも、存在するという事態は、「〇〇は(

    octavarium
    octavarium 2012/01/23
    仏教の「空」という教えの核心は、この言語の限界性にあります。言語によって語られることは、いかなる条件で通用し、どの範囲で意味を持ちえるのか、それを明らかにする態度こそ、「空」の立場
  • 恐山あれこれ日記: 無理な「真理」

    無理な「真理」 このブログで私が度々、「『真理』は嫌いだ」などと書くのを見て、それはどういう意味だと、今もよく質問されています。そこで、「嫌い」な理由を再度。 「真理」は認識ではなく、信仰です。もっと言えば、欲望です。何がしかの認識を、「真理」と呼んで「正しい」ものとして主張したいということです。 「真理」は「真理」であるが故に検証しようがありません。なぜなら、「真理」という以上は普遍的に、つまり、いつでも・どこでも・だれにでも・どのような条件でも、「正しい」と認識されなければ、「真理」という言葉の定義に反するでしょう。 ところが、いつでも・どこでも・だれにでも・どのような条件でも「正しい」かどうかを、有限的な存在の人間には、検証のしようがありません。 したがって、「真理」はそう信じ、そう主張する者、すなわち「信仰」する者にとってしか「真理」たりえません。 問題なのは、ここから先です。上述

  • 恐山あれこれ日記: かけがえのない、あなた

    かけがえのない、あなた およそ組織や集団に「かけがえのない人」や「なくてはならない人物」なぞは存在しません。もしそういう人物がいるなら、その組織は、組織としてダメなのです。補充不能の特定の部品を使う機械が失敗作であるのと同じことです。 が、特定の個人にとって特定の個人が「かけがえのない人」であることは、まちがいなくあり得ます。 孫を突然亡くした女性が、言いました。 「和尚さん。生まれ変わりって、あるんでしょうか?」 彼女が孫を失った直後、長く不妊で悩んでいた姪の娘が妊娠したのです。周囲は大喜び。「〇〇ちゃんの生まれ変わりだ」という親戚も大勢いました。 「あるといいですね」 和尚は言いました。そして続けて、 「でも、生まれ変わりだとしても、その赤ちゃんは、お孫さんとはまったく別人です」 女性は大きく目を見開いて、叫びました。 「そうですよね!」 和尚は最初、彼女が「あるといいですよね」という

  • 恐山あれこれ日記: 「老人」の垂訓

    「老人」の垂訓 医師・男性 「安らかな死、なんてのはないでしょうな。安らかそうに見える死はあるけど」 無職・女性 「死ぬ覚悟ができれば、欲は減るか無くなるかと思いましたが、違いました。欲の姿が変わるだけでした」 僧侶・男性 「90過ぎても、いつ死ぬのか見当がつかん。人を生かしておくには必要な無知だな」 無職・女性 「どれだけ長く生きたかより、どう生きたかが大切だと、よく言いますでしょ。でもね、そう言っても、誰だって大した生き方はしていませんでしょ」 無職・男性 「人はなぜ平気で眠れるのかね。平気で眠れるんだから、平気で死ねばいいのに」

  • 恐山あれこれ日記: 無常、無記、空

    無常、無記、空 仏教で「無常」あるいは「無我」というとき、私が考えることは、 「この世ははかないなあ」などという詠嘆でも、 「一切のものは一瞬もとどまることなく、移り変わっていく」という諦念でも、 「あらゆるものには実体はなく、様々な要素の寄せ集めである」という見解でもありません。  私が考えていることは、そのような物言い、判断や考え方には、その正しさを無条件的に保証する根拠が欠けている、ということです。 つまり、私がいう無常とは、「すべては無常である」という判断も含めて、一切の判断それ自体に確実な根拠はなく、その反対の考え方、たとえば、 「無常と見える現象の背後には、それを成立させている普遍的で絶対的な何か、理念や法則が存在する」 という考え方を、頭から否定する理由はない、ということです。 ということは、事実上、私は、「無常」「無我」を、形而上学的な命題に対して判断を停止する「無記」のア

  • 恐山あれこれ日記: 「人でなし」の宗教

    「人でなし」の宗教 「答えのない(または、答えられない)問い」は存在しますが、「問いのない答え」は存在しません。それは「答え」の概念の定義から外れるからです。 たとえば、「私はなぜ存在するのか」という問いは、原理的に答えられません。答えるとすれば、「問い」の水準を切り下げて、一定の視点から言語化の条件を課し、その条件に応じたアプローチ方法によって出てくる「答え」をもって、それ以上問うことを中止する以外にありません。 ということはつまり、我々は自らの存在をそれ自体として肯定する根拠も条件も欠いている、ということになります。 私は、「宗教」と呼ばれるものの根底には、このような人間の存在の無根拠性に対する苛烈な認識があると思います。もっと言えば、「人間」の在り方をそのまま肯定するような宗教は、宗教の詐称に過ぎず、「処世術」と呼ぶべきだと思います。その根源において、「ヒューマニズム」は処世術にはあ

  • 恐山あれこれ日記: 「他者」を問う方法

    「他者」を問う方法 およそ宗教には、その信者や修行者が遵守すべきルールがあり、「戒」とか「戒律」とか呼ばれています。 仏教では、出家修行者や信者が個人的に自らを律する規範を「戒」と呼び、僧侶集団の運営規則を「律」と呼びます。 ユダヤ・キリスト教には、有名な「モーセの十戒」があり、これは神からの命令としてモーセが受け取った規範であり、これを遵守することで、神との契約が成り立つ、ということになります。 このうち、条文の表現や適用条件はともかくとして、戒の内容として共通する部分を抽出すると、実質的な内容として「殺してはならない」「盗んではならない」「嘘をついてはならない」「邪な性行為(姦淫)をしてはならない(仏教の出家者の戒としては性行為をしてはならない)」、ということになるでしょう。 これらの四つの「戒」は、およそ古今東西のどの人間社会でも、掟や法律によって禁止されているでしょう。 このうち、

    octavarium
    octavarium 2011/05/20
    私は、この問いを問い、覚悟することが、自らにとっての「他者」の意味を根底から考える方法になると思うのです。それは結果的に、「縁起する存在」としての自己を認識する慧を開発することになるはずです。
  • 恐山あれこれ日記: 弔うということ

    弔うということ 人が死んで物理的に消滅したとしても、その人をめぐる人間関係とその枠組みが一挙に消滅するわけではありません。関係と枠組みは、記憶とともに残存し、生きている者に具体的な影響を与え続けます。 ということはつまり、遺された者は、物理的に消滅した存在を、残っている関係の中に、一定期間(関係の残存期間)、位置付け直さなければばりません。つまり、「死者」という存在として、再構成しなければならないのです。それによって、関係性をもう一度安定させる必要があるわけです。 私は、このことが弔いという行為のもっとも重要な意味だと思います。 単なる「死体」と「遺体」の違いは、まさにここです。死によって、すべての社会的な関係性を喪失して、一度ただの「物体」になった存在を、「誰かの遺した」体として人格を呼び戻し、社会的に位置づけ直したものが「遺体」なのです。弔いの最初の仕事は、まさに「死体」を「遺体」にす

  • 恐山あれこれ日記: 千の手、千の眼

    千の手、千の眼 思いつき禅問答シリーズ、そろそろここでもう一回。 仲良く修行に励む弟弟子が兄弟子にこう質問しました。 「千の手と眼を持つ慈悲深い観音様(いわゆる千手観音)は、あんなに沢山の手と眼で、どうしようというのでしょうね?」 「それはね、人が夜の真っ暗闇の中で、頭から外れてしまった枕を、寝ながら後ろ手であちこち探って捜すようなものさ」 「あ、わかった!」 「どうわかったね?」 「体中が手と眼だ、ということです」 「うん、言うべきことはちゃんと言っているが、言い切っていないな。まあ八分目というところだ」 「では、あなたはどう言うのですか?」 「頭の先から足の先まで、手と眼だ」 この問答、私はこう思います。 「闇の中、後ろ手で枕を捜す」とは、つまり当てがない行為を意味しています。それはすなわち、観音様の慈悲とは、あらかじめ超能力(それが千の手と眼です)を備えていて、救うべき人間とその苦悩

    octavarium
    octavarium 2011/04/10
    一人の苦しみに対する千の努力のうち、九百九十九が無駄になろうと、決してあきらめない意志と行為こそ、観音の慈悲なのです。行為が存在を規定する、というわけです。
  • 恐山あれこれ日記: 大震災

    大震災 このたびの大震災に際し、多くの犠牲となった方々、被災された方々に、心から哀悼の意を表し、お見舞いを申し上げます。 地震直後から、私自身にも近親者・恐山関係者にも、様々にお見舞いをいただきました。ここに無事をご報告し、深く感謝いたします。 連日の報道を見ると、今回の地震は空前絶後の大災害で、簡単に言うべき言葉が見つかりませんが、ここ数日間、考えていたことを、あえて申し上げておこうと思います。 こういうことが起こると、会う人ごとによく言われるのが、 「いや、和尚さん、当に世の中何があるかわからないね。まったく諸行無常だね」 という話です。 確かにそれはそうなのですが、実は私が今回いちばん強烈な印象を持ったことは、それとは違うのです。 実は、11日のあの時間、私は福井の住職寺にいて、書類をつくっていました。たまたま、午後3時のニュースを見るつもりで、テレビは付けていました(習慣で、私は

    octavarium
    octavarium 2011/03/21
    この「なぜか」という問いに、人間は答えるべきではありません。答えなき問いが存在することを認め、その重圧に耐え、受け止め、そして相対するべきなのです。その意志と勇気に我々の尊厳がかかるのだと思います。
  • 恐山あれこれ日記: 欲望のゆくえ

    欲望のゆくえ 残り少ない今年、各種メディアに接していて、私に印象深かったことは、児童虐待いじめの問題、就職難の若者と自殺し孤独死する中高年、そして所在不明の超高齢者の出現です。 これらを通して見えるのは、人間関係の急速な窮乏です。人間関係が人間の存在そのものであるとすれば、それは単なる「付き合い」の減少ではなく、存在の衰弱を意味するでしょう。 人間関係は自然発生的に形成されるものではありません。それを作り出す「作法」「文法」が必要です。その基的なツールが、たとえば「イエ」「ムラ」「ガッコウ」「カイシャ」などと呼ばれてきたものでしょう。昨今のメディアは、こうした「文法」の機能不全を伝えているのです。 社会存在を与え(「子育て」)、それを終了させる(「看取り」)ことを基機能として期待され続けた家族、職業を通じて地縁・血縁を超えた人間関係を媒介した地域共同体や学校、企業など。それらがこれま