山形県酒田市の菊池真智子さん(51)は、47歳でおばあちゃんになった。大崎市で看護師をしていた長女の歩さんが、女川町で働く同い年のゆう君と出会い、結婚。震災の前の年の9月、男の子が生まれ、凛と名付けられた。 お産を終え、酒田の実家から女川に送り出すとき、言った。「アユもお母さんになったんだから、凛を守らなくちゃだめよ」。歩さんは「マチコの説教がまた始まった」と笑って聞いていた。 ちゃんとした式は挙げていなかった。春に凜と一緒にお披露目をしよう――。その日は来なかった。 津波は、JR女川駅近くの4階建てアパートを丸ごとのみこんだ。地震の後、公園に避難していた歩さんは、凛くんを抱いて石垣を登ろうとしたが、手が届かなかった。誰かが「赤ちゃんを放して」と叫び、歩さんはそうせずに流された、との目撃証言がある。 職場にいたゆう君は難を逃れた。1週間後に駆けつけた菊池さんらと、避難所を、次に遺体安置所を
本年度のグッドデザイン賞で、東日本大震災の津波で流された写真の洗浄、返却活動を展開する山元町のプロジェクト「思い出サルベージ」が金賞を受賞した。女川町が震災の被災者向けに整備した災害公営住宅「運動公園住宅」は復興デザイン賞に選ばれた。 思い出サルベージは2011年4月に活動を開始。町内で自衛隊などが回収した写真75万枚をボランティアが洗浄・データベース化し、町と連携して約40万枚を持ち主の元に返した。 現在は、住民が持ち込んだ被災写真の洗浄を全国のボランティア団体に依頼する仲介も手掛けている。 審査では、数多くの写真を返却した実績や、日常を捉えた写真の再生によって住民を前向きにしている点などが評価されたという。 思い出サルベージの溝口佑爾代表(31)は「住民らと顔を合わせ、共にプロジェクトを練り上げた。山元から明るい情報を発信でき、とてもうれしい」と話した。 女川町の運動公園住宅は
再稼働に向け国の原子力規制委員会が適合性審査を進めている東北電力女川原発2号機(石巻市、女川町)について、県独自に安全性を評価する検討会が11日、仙台市内で発足した。県、石巻市、女川町が共同で設置し、原子力や耐震工学などを専門とする有識者10人で構成。震災後の女川原発の健全性と、国の新規制基準適合後に安全性がどの程度向上するかの2点を検討する。 初会合では、東北電が女川原発2号機の現状や安全対策を説明。委員からは「放射線の監視体制の強化や情報提供が必要」「火災や火山も含めた複合災害をどこまで考えるか」など多様な意見が出された。 東北電は女川原発の施設を変更する際に、県、女川町、石巻市と事前協議する協定を結んでおり、昨年12月に国に安全審査を申請した際に3者に協議の開催を申し入れていた。県は協議に際し、専門性が高くなることから、有識者検討会の設置を決めた。 座長に選任された若林利男東北
技術力への自信と同業他社への強烈なライバル心。東北電力を原発建設に駆り立てたのは、国策や経営合理化の要請だけではなかった。 同社初となる女川原発(宮城県女川町、石巻市)の1号機は1984年に稼働した。国内でトップを切った日本原子力発電(原電)に遅れること18年。既に東京、九州など電力7社が計25基を保有していた。 「自分たちの技量を証明するには原発が必要だった」。当時の経営環境を知る元東北電役員が語る。 建設の前提となる地元漁業者との漁業権交渉は難航した。理解を得られなければ着工は不可能だ。東北電はなりふり構わぬ説得工作を展開した。 女川町議会議長の木村公雄さん(78)は、40年以上も前の光景が忘れられない。まだ若手町議だったころ、東北電副社長が自宅を訪ねて来た。 激しい抵抗を受け、漁業権交渉は暗礁に乗り上げていた。当時の漁協幹部の中に木村さんの親類がいた。その幹部への仲立ちを、
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