浮世絵に関するonboumaruのブックマーク (3)

  • 葛飾北斎 ―画狂老人は一処に安住せず― | 砂村隠亡丸の余苦在話-よくあるはなし-

    KATSUSHIKA HOKUSAI 転居93回、改号30回。北斎は当に奇人だったのか 欧米での信仰的とも言える評価に反して、日での北斎評はまず「奇人」である。 そのイメージは、飯島虚心の著した明治期の評伝「葛飾北斎伝」によるところが大きい。 序文にはっきりと「画工北斎畸人也」とあり、また家の中はごみまみれで、ために93回も転居したとある。 どうやら、絵を描くこと以外はまるで無関心だったようだ。 無愛想で人付き合いが悪く、金には無頓着だった。 掛取りが来ると、机の上に置きっ放しだった画工料を、包みのままどんと投げてよこしたという。 それでもっていかないといけないから、一説では己の画号を弟子に譲って金に変えた。 それが30回という異常な改号の多さにつながったともいう。 (※クリックで拡大します) 晩年の弟子露木為一による「北斎仮宅之図」 虚心が露木から提供されたもの (左の女性は娘のお

    葛飾北斎 ―画狂老人は一処に安住せず― | 砂村隠亡丸の余苦在話-よくあるはなし-
  • 月岡芳年 ―「血みどろ」絵師は「生」を見つめた― | 砂村隠亡丸の余苦在話-よくあるはなし-

    TSUKIOKA YOSHITOSHI 「血みどろ」の時代 月岡芳年(つきおか よしとし)は「血みどろ」の絵師である。 妖と奇の巨人、歌川国芳に師事し、兄弟子に落合芳幾、河鍋暁斎らがいた。 一魁斎、玉桜楼などと号したが、最後は大蘇芳年と名乗っている。 出世作は、慶応二年刊行の「英名二十八衆句」、同四年すなわち明治元年の「魁題百撰相」。 両作の成功により、「血まみれ芳年」の異名をとった。 (※クリックで拡大します) 痴情のもつれによる殺人を報じた郵便報知新聞の記事より。 芳年の挿絵が今で言う報道写真の役割を果たした。 めくるめく生首、血しぶき、死に顔、鮮血のオンパレード。 残虐とグロテスク、怪奇、猟奇に満ちている。 「無惨絵」「残酷絵」「血みどろ絵」などと称される新ジャンルを切り拓いた。 同じく郵便報知新聞に提供した挿絵。 追い剥ぎに遭った女二人が、狼にわれた事件を描いたもの。 だが、その

    月岡芳年 ―「血みどろ」絵師は「生」を見つめた― | 砂村隠亡丸の余苦在話-よくあるはなし-
  • 歌川国芳 ―江戸に妖気と近代をもたらした男― | 砂村隠亡丸の余苦在話-よくあるはなし-

    UTAGAWA KUNIYOSHI 妖気と新奇 歌川国芳(うたがわ くによし)は妖と奇の画師である。 たとえば歌麿を寛政期(1790年代)、北斎を文化文政期(1810~1820年代)の人とするならば、国芳が絵筆に依って人となったのは天保年間(1830年代)、その円熟期とされるのはさらに嘉永年間(1850年代)まで降る。浮世絵史においては晩期に属する人と言って良い。 町人文化の爛熟期は一段落し、奢侈禁止令や未曾有の大飢饉により、社会に沈とした空気が蔓延していただろう時代である。巷には飢えと悪事がはびこり、海の向こうからは大砲のきな臭い匂いが徐々に近づきつつあった。 そんな重苦しさの中に登場した国芳の画は、いつも妙な生臭さと斬新さに溢れていた。人物は妖しい生命力に満ちている。まるで隣り合う死の匂いに突き動かされているかのようだ。構図や着想の斬新さは、忍び寄る蒸気船の気配に、知らず知らずかきた

    歌川国芳 ―江戸に妖気と近代をもたらした男― | 砂村隠亡丸の余苦在話-よくあるはなし-
    onboumaru
    onboumaru 2017/04/12
    画師略伝
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