尾張の戦国大名・織田信秀の三男・織田信勝(信行)の嫡男として生まれる。享年に諸説あり、このために生年は確定することができないが、織田信長の甥にあたり、その嫡男である従兄弟の織田信忠とはほぼ同年代であったと考えられる。 弘治2年(1556年)に父・信勝は謀反の企てを起こして敗北し、永禄元年(1558年)に父は伯父(信勝の兄)・信長によって暗殺された[11][注釈 9]。しかしその子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された[4]。 『寛政重修諸家譜』等で、永禄7年(1564年)正月に元服して津田七兵衛信澄を称して津田氏[注釈 10]を名乗ったと記されているが[4][6]、これは誤りである[3]。 元亀2年(1571年)、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子となった[注釈 11]。磯野姓を名乗っていたかどうかは不明。天正2年(1574年)2月3日に美濃岐