(岩波書店・2100円) ◇言葉の肌かすめる、乾いて冷たさを孕んだ風 まだ学校給食がなかった時代の、温飯器で温めたアルマイトの弁当箱からひろがる菜(な)っ葉(ぱ)漬けとたくあんの匂い。練炭の掘り炬燵(ごたつ)のなかで育てようとした納豆や夕餉(ゆうげ)の支度に使われていた亜炭の甘酸っぱい匂い。「それらは、頭に記憶されているというよりは体に滲(し)みた肉体化された感覚だ」と鬼海弘雄は書く。 肉体化された匂いは、母親が作ってくれた鯖(さば)缶のカレーや月山からの雪解け水で煮た「芋こ汁」、「だし」、「からかい」(干しエイの煮付け)等の味といっしょに幾度もかいできたはずなのだが、まるでたった一度しかなかったことのように、封印された大切な記憶の蓋(ふた)を開ける。 著者の郷里は、山形県寒河江(さがえ)市。かつては醍醐(だいご)村と呼ばれた土地の米農家で、ながく厳しい冬を主役とする四季の流れを身体に染み