ブックマーク / kasasora.hatenablog.com (41)

  • 母の死に目に会えないだろう - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だから僕はそれ以来母に会っていない。 僕が母と呼ぶのは養母のことである。実母は僕を産んですぐに亡くなった。もちろん記憶にはない。 血のつながりというものがどれほど強いのか僕にはわからない。僕は父とは血のつながりがあって母とはない、そいういう家庭で育ったわけだけれど、父母のどちらかだけを物の親だと思ったことはない。 父は僕と子ども同士のように遊ぶばかりの(今にして思えば)子育ての実務の役に立つことのない人だったし、父の威厳みたいなものもぜんぜんなかった。母は母でずいぶんと(当時にしては)進歩的な考え方の、なかなかのインテリで、高校の教員をしていて、当時のティピカルな母親像みたいなことをやってくれる人ではなかった。おかずはだいたいスーパーかデパ地下のやつで、僕はそれを親たちと一緒にべて大きくなったのである。 そんなだから

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    ot_nail 2022/02/16
  • わたしの弟はワクチンを打たない - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。最初の通達から一年あまり、何度目かの通達のさなか、疫病のワクチンが提供されはじめた。それで全員が打つかといえば、そうではない。わたしの弟は打たないという。そして、わたしはそれを責めることができない。 弟は東京で一人暮らしをして、アルバイトで生計を立てている。今日働かなければ来月の家賃があやうい。運も悪かったし、弟の思慮が足りないところもあったと思うのだけれど、とりあえず自分で生活はできているのだし、人に大きな迷惑をかけているわけでもなし、責められるようなことではない。 わたしはそう思っているのだが、両親は「恥だ」と思っている。自分たちの助言をふいにして大学進学をせず、夢みたいなことを言っておかしな企業に就職してすぐに辞めてその日暮らしをしている、そんな浅はかな息子は心配するのも癪だと、そういうふうに思っている。 そうはい

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    ot_nail 2021/08/25
  • 俺に口を利くなというのか - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのときわたしは一人暮らしだった。こんな世の中だから、とわたしの交際相手は言った。不安だよね。一緒に暮らそう。結婚しよう。 そうしてわたしたちはたがいの両親に会い、いささか古いと思いながらも「婚約」というプロセスもやることにした。区役所に婚姻届を出す前に結婚式の準備をしながら同居して生活を整える期間をもうけたのだ。 結果として、これは正解だった。さっさと籍を入れていたらより面倒なことになったはずだからだ。婚約してよかった。そう、わたしは婚約から半年後、それを破棄したのである。 最初に疑問を感じたのは彼の「いいよ」ということばだった。 結婚すると決めて以降、この小さなことばの使い方が、ほんの少し変わったように感じたのだ。それまでは「コンビニ寄っていい?」「いいよ」といった使い方だった。これはぜんぜんおかしくない。友だちにも

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    ot_nail 2021/05/19
  • おしゃれしないと死んじゃうの - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの勤務先でもテレワークが常態化して、人によってはフルリモートである。そのためにまいってしまった社員がけっこういる。彼らは口々に言う。些末なコミュニケーションがないことの非効率性について。仕事時間の区切りがつかなくなる危険性について。あるいは、家庭用のダイニングテーブルで長時間PCをたたくことの健康上の問題について。 わたしはそれらについてできるかぎり解決し、あるいは解決できないと告げる。そういう係なのだ。わたしは非効率性の内容を精査する。わたしは交通費を廃止する。わたしは代わりに「在宅勤務に係る手当」を支給する。わたしは常よりこまかく面談をもうける。業務にまったく関係なくてもいいからリモートをやっていてしんどいことを教えてくださいと言う。参考にしたいので、と。 彼らは口々に語る。運動不足による宿命的な体重

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    ot_nail 2021/04/21
  • 夫の無職とわたしの生活 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経ち、疫病とそれに対する政策のあおりをうけた企業の事業撤退や縮小、売却、倒産が相次いだ。わたしの夫の職もそのようにしてあやうくなった。だから無職になると夫は言い、そうかいとわたしはこたえた。 夫は自分がこれまで身につけたスキルを検討し、疫病下の世の中では買いたたかれると判断して、しばらく社会人向けの職業訓練プログラムに(オンラインで)通って、それから転職するということだった。真面目である。わたしだったらしばらく不貞寝してると思う。あと一日中ゲームやってると思う。 Zoom会議をしていると生活音が入る。もうみんな慣れっこだが、今日の相手からは、ご家族いらっしゃるんですか、と訊かれた。いますとわたしはこたえた。ご主人ですかと重ねて訊くので夫ですとこたえた。お仕事なにしてる人ですかと訊かれたので無職ですとこた

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    ot_nail 2020/12/23
  • 僕の無職と妻の関係 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕の勤務先は人が出歩かないと儲からないところだったので潰れた。 そこで今後を案じて新しい技能を身につける勉強をしつつ、しばし無職を楽しむことにした。ほんとうは無職になったら世界一周したかったんだけど、僕が世界一周できる状況だったら僕は無職になっていない。つらいところである。 僕はふだんの生活にあまりお金をかけないたちだから、貯蓄でしばらく保たせることにした。疫病のために人づきあいも極端に減ったから、家賃もふくめて月に十万あれば生活できる。 もちろんひとりきりだったら、いくら質素でも十万じゃやれない。でも僕には同居している結婚相手がいるからやれる。人間は寄り集まって生きると安く上がる。家賃も光熱費も費も、二人で住んで二で割れば、一人暮らしよりずっと安い。安く上げてできた余剰で子どもや病人をやしなうといいよなと思うけど、し

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    ot_nail 2020/12/16
  • 彼女の無邪気な異文化体験 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それで活性化したのがオンラインのつながりである。わたしは名ベースのSNSのアカウントを持っているが、投稿はしていない。属性だけ変える。そうすればいちいち「転職しました」というメールなどを出さなくていいからである。 そんなだから「友だち申請」的なものもふだんは少ないのだけれど、疫病流行から三ヶ月くらいでぽつぽつ増えはじめ、半年も経つと誰だか思い出せないような人からも申請が来るようになった。新しい人と知り合う機会が減った疫病下では、古いつながりを引っぱりだしてつながりなおしておこうとする人が多いのかもしれない。 わたしは機械的に相手の素性を確かめる。とくに問題なければ「友だち」申請を許諾する。だってわたしはどうせなにも投稿していない。申請についているメッセージには返信しない。メッセージを送りたければ自分から送るし、そのとき

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    ot_nail 2020/11/18
  • ふるまいのコード - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経って、レストランはなんとなく再開しているところが多い。しかしわたしの伯父の寿司屋はこのまま休業をつづけて、どうかすると廃業するかもしれないという。 わたしは東北の小さな街に生まれた。進学のために隣の県の都市に出て、そのまま働いている。東北随一の都市ともなると繁華街も大きく、飲店も賑々しく営業再開しているように見えるが、実際のところは歯が抜けたように休業継続や廃業の貼り紙がある。外が「よぶん」とされていた期間を持ち堪えられなかった、または疫病下の客数で店を開くことに意義を見出さなかった店たちである。 わたしは寿司屋に行く。東北は魚がうまいところだと、東京あたりの人は言う。まあ日の半分くらいはそうなんじゃないかと思う。ともあれわたしはよく魚をべる。生の魚が寿司の格好になるまでどういうルートをたどる

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    ot_nail 2020/11/04
  • かつてこの世界にあったバーという場所について - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。レストランは「よぶん」と「よぶんでない」の中間くらいの扱いで、なんとなく「まあちょっとはいいんじゃないか」という雰囲気になっている。この雰囲気というのがくせもので、根拠はないが従わないと我が身があやうい。そのこと自体がしんどい。疲れる。 疲れるが、それはそれとして、レストランに行けることは喜ばしい。僕は生活における飲の重要性がきわめて高いタイプの人間なのだ。稼ぎが上がってもエンゲル係数が下がらない。「やったー給料が上がったー、何くって何のもう」とか思ってしまうのだ。 そんなだから飲店が閉じた時期はつらかった。今でもけっこうつらい。というのも、休業を続ける店もあったし、そのまま閉店する店もあったからだ。幸い行きつけはみな生き残ってくれたが、まだ行っていない店はいわば僕の将来の希望なのだ。希望の目減りは人生の損失である。

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    ot_nail 2020/10/28
  • あなたの最後のパーティ - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにいくつかの事象が絶滅する見通しだ。そのうちのひとつがパーティである。 この世界にはかつて、知らない人を含む多数の人間が集まって飲をともにし、特段の目的もなくさほどの実りもない会話をし、それだけで何時間も過ごす、という行事があった。宴会とかパーティとか、そういう名前のイベントである。現在でもないのではない。よほどの関係のある者同士のよほどの機会であれば実行可能だ。 具体的には、披露宴だとか、精進落としだとか、そういった冠婚葬祭的なものは、実行しても非難されることは少ない。少ないが、それらもしだいに減ると予測される。「感染リスクを取ってまで来いというのか」と思われることが人間関係上のリスクだからである。「感染リスクを負うか否か選ばせるのは申し訳ないから」という理由でわずらわしい義理の関係から遠ざかることもできる。

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    ot_nail 2020/10/21
  • 偽物の期限 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕が恋人でない女と暮らしはじめたのはそのせいである。 僕には去年の年末までつきあっていた人がいた。美しい人だった。意思が強く計画的で、人生に求めるものが明確な女性だった。彼女は十代のころから、堅実に働きしっかりとした家庭を持つと決めていた。資格の取れる大学に行き景気に左右されない職に就いて、楽しいだとかおもしろいだとか、そういうことは抜きにして、彼女の思う正しさをそなえた仕事をしはじめた。僕と彼女が出会ったのはそのころのことだ。 僕もまた堅実な人生を歩んでいた。だから彼女は僕を選んだ。僕も彼女のような人と家庭を持ちたいと思った。でも僕は彼女ほどに意思が強くなく、堅実な路線で生きてきたのはただ単に「そういうものだ」と思っていたからだ。学生時代の終わりからじわじわと「自分はそういうタイプではないのかもしれない」と思っていたけ

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    ot_nail 2020/09/02
  • そしてわたしは嘘をつく - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。しかしながら引っ越しはいまだ認められている。「要」で「急」であるという審査を通るかぎりにおいて。具体的には労働もしくは「家族」の要請するかぎりにおいて。 この社会は第一に自助、それから血縁・法律婚家族の「絆」で回っている。真実天涯孤独であるならその証明書を出せばしかるべき機関が(ゲットーとあだ名されている)指定住宅を提供する。「福祉」である。疫病が流行しているこの非常事態において許される私用の引っ越しは、家庭の結成と解散、または「福祉」を要するケースのみである。 わたしの引っ越しは政府の定義における不要不急でない。この国家がこの事態において容認するものではない。わたしは女で、女と暮らしたいのである。 そんなだからわたしは芝居を打った。わたしは一緒に暮らしたい女を「緊急連絡先の姉」とし、そうして同世代の男の友人を「結婚する予定の人」として連れ

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    ot_nail 2020/06/17
  • わたしの必要としていた家族 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。高校生の娘の通う高校も自宅学習になり、受験はどうするのかと心配していた。すると娘はけろりとして、わたしもともと自習タイプだから、と言う。なんでも校外学習でどんな学習のしかたが自分に合っているかを考えるワークショップだかなんだかに出たことがあるのだそうである。 暗示のききやすい年頃だということを差し引いてもたしかに娘はひとりでを読んだり教育アプリで勉強したりしている。経費のかからぬ子である。小さいころは何を習わせてもどんなタイプの塾に入れても続かなかった。何もしたいことがなく勉強も嫌いなのかとは言い、ずいぶんと案じていた。しかしそういうわけではなく、要するに大勢の仲間と一緒に何かを習うのがあまり好きではないようなのだった。 そのような娘は学校が長期間なくなってもけろりとしている。平気かと訊くとまあ平気だと言う。それから少し考え深げにして、

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    ot_nail 2020/05/20
  • やわらかな指を待つ - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。化粧品を買う行為はどうやらよぶんとよぶんでないものの中間と見なされているらしく、百貨店では買えないがドラッグストアでは買える。誰がその要不要の境界線を決めているのかは知らない。 わたしは化粧について特段の意見を持たない。というより、持ちたくないのだと思う。わたしは少女のころから女性たちの手で化粧品を選んでもらうのが好きだった。色つきリップとつや消しのおしろいにはじまり、そのときどきの財布の中身にふさわしい商品を女たちに選んでもらって生きてきた。 わたしは基的に能動を好む。人生のごく最初のころからさまざまなことを自分で決めたいと思ったし、実際にそうしてきた。進路、職業、住居、友人、伴侶や家族、趣味ーー思いつくかぎりほとんどすべての人生の要素を、自分で選んだ。そういうのが好きなのである。 選択肢がたまたま与えられることはあ

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    ot_nail 2020/05/13
  • パンとコーヒーとアフリカの夢 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。誰がどうみても「よぶん」でない最後の聖域は料品と日用品の買い出しである。 僕はカフェを経営している。そしてわりと空気を読むタイプである。空気を読んで早々に業態を切り変えることにした。テイクアウトのみの営業にし、店内での事のためにつくっていたパンも売ることにした。パン屋です、みたいな顔をしていれば命のコーヒーコーヒー豆を売る場を保つことができる。僕はそう考えて小麦粉を大量に仕入れ、パンを焼いて焼いて焼きまくった。 僕は恐れている。国家と自治体とそれから近隣の、よくわからない相互監視を恐れている。近隣の個人商店同士のあいだにも自粛度合いを監視する動きがある。「良い子にしていない者は排斥するべきだ」という空気が醸成されつつある。「良い子」の基準はない。ないからどんどん用心深くなる。なにしろ、不要不急に見える外出をすると

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    ot_nail 2020/05/06
  • 恥と命令とプライドと - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。外出は通勤を含む。そのために対面を必須としない業務は大急ぎで在宅勤務に移行した。具体的にはインターネットを経由して仕事をするようになった。わたしの職場はIT系ではない。だからそうしたことが得手な人間が不得手な人間をサポートすることになる。わたしはサポートする側である。そしてその状況に、つくづく飽きている。 全員が思いきり働いて全員が機能している組織があったら不健康だ、という話を聞いたことがある。どんなにすぐれた組織にも常時さぼっている者はあるし、能力がマッチせず機能しない者もある。そういう従業員を全員見つけ出して片っ端からくびにする組織は、いったいどうやってそれを可能にしていると思う? 想像した? ね、恐ろしいだろうーーそういう理屈だった。 わたしはそれを聞いてなんとなし納得し、職場で誰が仕事をしていなくても、また自分が

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    ot_nail 2020/04/29
  • 関係は減衰する - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。家族のほかは届け出をした相手にしか対面で会うことができない。とんだ国家だが、ここよりほかの場所に行くための許諾はしばらく下りそうにない。 他人とのかかわりを減ったことを嘆く声がたくさんある。わたしが(オンラインで)口をきく相手もそのようなことを言う。そう、とわたしは言う。わたしは、実は、そのことについては、あんまりつらくない。わたしはひとり旅を愛し、友人は少なく、職場のつきあいにも熱心ではなく、都心といえる場所の賃貸マンションに独居して地域社会に属していない。ずっとそうだった。だから疫病の流行後もわりと平気である。何週間も誰とも口をきかなくても問題を感じないたちなのだ。年末年始の旅行などは人と口をきかずに知らない場所をほっつき歩くためにしているようなものである。 勤務先では、リモートワーク中の社員の心が暗くならないように

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    ot_nail 2020/04/22
  • わたしがどこへも行けなくても - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。ほどなく私用の海外旅行や、まして移住は、事実上不可能になった。 わたしは休みの日には女の格好をしていた。いつかそういう格好で職場に行きたかった。そういう格好のまま彼氏を見つけて腕を組んで歩きたかった。そのために英語スペイン語とフランス語を話せるようになった。大学ではグローバルに必要とされるというITと統計とAIの原理とその社会的応用について学び、いかにもすぐに役に立ちそうなスキルをいくつか身につけて、そうして就職して、少しのあいだつとめた。 でももうそんなのはもはや意味のないことだ。疫病が流行したので、どれほど勉強したって、わたしが海外に出ることはできない。苦労して取った性別不問の外資の転職の内定は疫病の世界的な流行によってあっけなく取り消された。 わたしは男である。男のからだをしている。そのことに異論はない。このから

    わたしがどこへも行けなくても - 傘をひらいて、空を
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    ot_nail 2020/04/01
  • お知らせ - 傘をひらいて、空を

    近ごろの注文原稿についてお知らせします。 文藝春秋『文學界』2020年2月号に書評を書きました。吉田修一『逃亡小説集』について。紙媒体のみです。昨年に河出書房新社『文藝』に書いたエリザベス・ストラウト『何があってもおかしくない』の書評はWebで読めます。 現在、インターネットラジオ放送局『まちだ大學ラジオ放送局』でドラマの脚を担当しています。隔月連載。最新作は「テーブルの上の心臓」、主演は佐々木心音さん。 一昨年から昨年まで短編を連載したWebメディア『フミナーズ』がなくなったため、掲載先が移りました。こちらでまとめて読めます。

    お知らせ - 傘をひらいて、空を
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    ot_nail 2020/03/18
  • 期間限定私設美術館 - 傘をひらいて、空を

    疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしたちは家のなかに引きこもり、ちいさくちいさくなって暮らした。 最初は都心のデートスポットだった。 わたしがもっとも好ましく思うデートコースは、都心の高い高いビルディングのてっぺんに近いところにつくられた現代美術館の展示を流して、それからそのビルディングのなかの、美術館よりひとつ高いところにあるカフェで、香りのよいコーヒー、もしくは同じくらいに香り高いビールをのみ、手足の指の先まで使用しながらたがいの距離をスツールのあいだではかり、少し話をして、そうして、適切なレストランまで歩く。場合によっては、そのあとにバーに行く。 そのような振る舞いを、わたしは好きだった。だからそのときもいつものように恋人と待ち合わせて行った。美術館はその一昨日夜間に告知して前日から休館していた。わたしたちはその巨大なガラスの前で立ちすくみ、映

    期間限定私設美術館 - 傘をひらいて、空を
    ot_nail
    ot_nail 2020/03/17