脱オタ論とアンチ脱オタ論が噛み合わない理由 - 紫色の夕暮れ えっと結論だけ書いちゃったので経路を書いてみますね。 まず、脱オタもアンチ脱オタもアクティブな感情*1に基づく行動によって得られる利益については、その価値をどちらも認めている場合がほとんどです。で、意見が分かれているところはどこかというと、それを手に入れることが『可能』か『不可能』かって部分なんです。ここら辺で持ってる能力云々ってフレーズが出てくるわけですね。 脱オタの場合「努力などによってそういった能力の部分はある程度改善可能で、改善すれば利益を得られる可能性はある」という。 アンチ脱オタの場合「努力したところで能力の改善度はたかがしれていて、元から低すぎる我々は利益を得られない」という。 ただココで勘違いしちゃいけないのは『可能性はゼロではない』って部分なんです。どちらも可能性があることは認めてる。しかし、可能性の高さの部分