このブログを言文一致で「私」を主語に書いてきた理由は様々あります。第一に、哲学書の翻訳概念が社会的かつ歴史的に負った権威性と思弁性を、現代の主体の問題に軟着陸させるための便宜。第二に、悪趣味にせめてもの責任を負わせる遂行的発話の含意。第三に、Twitterを拒絶して「反時代的」に生きた過去への深い自己愛。第四に、人と会話したり短文で物を書く機会が少なく、他の書き方を忘れてしまったという事情です。 趣味としては楽しんできたのですが、時間をかけてこだわった重い文章を書きすぎたようで、やばいやつかと人に怖がられることが最近多く、そろそろ方法を変えるべきかと判断されました。一見して感受されるような主体のやばさなど、二一世紀世界のやばさを記述した際に発生する副次的な効果にすぎず、自分を大きく見せて人を威圧したいわけではないためです。 実際、旧年に人生初の配信をした際も、普通に喋ったつもりが何か辛そう
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