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今日はてなブックマークを読んでいたら、たまたま「大学は仕事のためにあるべきだ」なんて言ってるやつがいた。 たしかに言いたいことは分かる。 大学に入って、将来の仕事に役立たないことを学んでいる人がほとんどだからだ。 自分も何のために大学で勉強しているのか、何のために莫大なお金を払っているのか、疑問に思ったことは何回もある。 「もっと将来、仕事で実際に役立つようなことを学びたい」とも思ったことはある。 だから、その点は理解できる。 ただ、高卒のやつは 「大学って高校よりもずっと高度で専門的な学問を修める場所だし、将来その専門性を活かすために学んでるわけだよね」 なんて言っていた。 これを読んだ時、正直「この人はなにもわかっていないんだなぁ…」と思ってしまった。 そして、思わずいろいろ反論してしまいたくなったので、私の思ったことをこのブログを通してまとめたいと思う。 ツイート 学問と仕事は別なん
俺は高卒で何の専門性も持ってないから会社に営業やれって言われれば営業やるし工場で働けって言われれば工場で働く 自分がその会社で何をやるか明確に決まってない状況でも雇ってくれるならそりゃ就職する でも今の人はほとんど大学行ってるだろ?で大学行ってる奴もそれじゃだめだろ? だって大学って高校よりもずっと高度で専門的な学問を修める場所だし(だよね?)将来その専門性を活かすために学んでるわけだよね なのに自分が何やるかわからない状況で高卒の俺みたいな会社への入り方しちゃいけない たまたま割り当てられた仕事でたまたま自分が学んできたことが活きることもあるだろうけどそんな偶然に委ねるんじゃなくてちゃんと自分の強みとか専門性を活かせるように考えて動いて欲しい 大学の4年間とかそのあと院に行く人ならもっとだけどその時間の価値を自分で無にするような自分の過去を捨てるようなもったいないことはしないで欲しい
kirara @ykirara 退職して大学院の博士課程で勉強することが世間の人々には理解しがたいようだ。同級生は「名誉のためか。」と言うし、妻の上司は「何の目的で行くのか?何がしたいのか?」と不思議がられたという。単純なことです。「数学をするのは自分が自分でありたいからです。数学をしないと生きていけない。」 2018-06-02 20:02:09 禁煙してぼーっとしてる鯖缶 @anotherchiharu 日本人、なんのために生きてるかという意識が希薄なんだと思う。だから不安が勝るんだと思う。目的があれば多少のリスクや不自由は霞んじゃうもんだと思うけど、そういう生き方を馬鹿にする風潮あるなぁと思う。 twitter.com/ykirara/status… 2018-06-03 19:13:32
無教養なビジネスパーソンは「危険な存在」 近代以降、ヨーロッパのエリート養成を担ってきた教育機関では長らく哲学と歴史が必修とされてきました。今日に至っても、たとえば政治・経済のエリートを数多く輩出しているオックスフォードの看板学部「PPE=Philosophy, Politics and Economics」(哲学・政治・経済学科)では、哲学が三学領域の筆頭となっていますし、フランスの高等学校課程=リセでは、理系・文系を問わずに哲学が必修科目となっており、バカロレアの第一日目の最初に実施されるのは伝統的に哲学の試験とされています。パリにしばらく滞在した人であれば、バカロレアの哲学試験にどのような問題が出されたか、自分ならどう答えるかがオフィスやカフェで話題になっているのを耳にしたことがあるのではないでしょうか。 あるいはアメリカに目を転じても、エリート経営者の教育機関として名高いアスペン研
哲学のなんたるかがわかってるんかねえ。 なんか勘違いした偏見があるとしか思えない。 他の学問や芸術や娯楽・趣味がオッケーなら哲学もいいじゃん。 まあ、工学や法学や医学のような実学をやる気がおきなかったのはいいにしても、 この時代になんで自然科学やらないんだ?もうさんざんやりつくされた古典の文献学なんかやってるんだ?っていいたくはなる。 文系の諸君は、 わかるわからないで測るはずのところを、知っている知らないに変えて区別する。 だから、 これについて語れない者は駄目だとか、彼の著著を読んでないのなら駄目だとか そういう見分け方をする。 グローバルな大地で演算処理能力を共通の武器に切磋琢磨せず、 よりローカルなルールへと、より私の文脈で使われるタームへと、 奥へ奥へ穴を掘り寝床を作る。 つまり、賢さを、どれだけ知っているかを表すものに再定義したいのである。 どう考えた
中川純男先生が亡くなって、まもなく1年になる。この3月に中川先生の事実上の追悼論集というべき書物が刊行されたので(慶應義塾大学言語文化研究所・発行、慶應義塾大学出版会・発売)紹介しておきたい。 西洋思想における「個」の概念 作者: 中川純男,金子善彦,田子山和歌子出版社/メーカー: 慶應義塾大学言語文化研究所発売日: 2011/03/01メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 22回この商品を含むブログ (5件) を見る慶應義塾大学出版会による紹介 まもなく4月9日の一周忌である。昨年頼まれて書いて書いた私の追悼文を約1年の時を経て、ここに全文掲載しておこう。 中川純男先生が亡くなられた。ほとんど信じがたいことである。先生は今年一月末頃より入院治療を受けられていたが、春以降の公務復帰にも積極的であったと聞く。私もかつて、中川先生にアウグスティヌスやデカルトをラテン語で読んでいただき、ま
前回の中学受験のエントリーには思いがけず多くの反応があった。 そして、多くの人たちがひとつの大変興味深い問いにたどりついたようだ。 「そんなすごい小学生たちはいったいどういう大人になったのか」という問いだ。 そして今回はその問いに答えていこうと思う。 結論からいうと「みんなただの人になった」が答えだ。 もうちょっというと、ただの人だけど、やっぱり普通よりちょっと高収入で、ちょっとばかり社会的地位の高い人たちだ。 残念ながら世界的な企業家やノーベル賞級の科学者というのはほとんどいない。 (逆に言えば、こうした企業家や科学者の圧倒的多数は、昔はふつうの小学生だったわけだ) 具体的にいうと、理系だと年収1500万円ぐらいの勤務医か年収700万円ぐらいの大企業のエンジニア、文系だと年収1000万円ぐらいの官僚や弁護士ぐらいが典型的な進路だ。 やはり彼らは母親のいうことを素直に聞いて勉強するタイプな
2009年7月9日 『パターン、Wiki、XP 』刊行記念トークセッション「時を超えた創造の原則」 - omote87 - ハチロク世代 上のイベントをみて思ったこと。この辺の知識は『クリストファー・アレグザンダー』を半分読んだくらいで、以下はてきとうな妄想として。 なんらかの結論を述べた文章ではありません。ご了承ください。 魔術 魔術に明確な定義はない。未知の力を利用して目的を達成することが魔術だと思う。目的のためには未知の力と既知の力を組み合わせることも道理だ。しかし未知の力を解明することは魔術に求められない。使える力をありったけ利用するのが魔術研究のあり方だと思う。 現実では魔術は発達してない。科学的な考え方の強さが背景にある。できる限りブラックボックスを解消したほうが、いろいろなことがわかり、いろいろなことに応用できる、と考えるのが現代における科学と技術の考え方だ。ゆえに魔術に没頭
先月の話ですが日経コンピュータ(2006.1.23)の特集記事「IT関連学会の憂鬱〜遠ざかる産業界との距離」を読みました。気になった部分をメモ。 東京証券取引所で大規模なシステム障害が発生したIT業界。日本最大のIT専門学会である情報処理学会は、この件に関して正式なコメントや見解を一切示していない。障害原因の究明にも乗り出していない。 「社外の人と技術的な意見交換をする場はどこか」という質問に対して「学会」と答えた件数はワースト2位。 ワースト1位は教育機関。トップ1位はセミナー。 4年近くシステム構築関連の研究会に参加していたが、「自社の業務に役立った論文は皆無だった」 情報処理学会の論文には、本数稼ぎとしか思えない”ライト・オンリー”なものが多い。ライト・オンリーとは、執筆者と査読者しか読まないという意味だ。 余剰金を使って(情報処理)学会内部の事務システムの導入に乗り出したが、システ
ネットが破壊したいくつかの伝統的なものの中に学術的権威がある。 マスメディアは大衆の意識を操作するために学術的成果よりもその権威をよく利用した(誤用や意図的な誘導もたくさんやった。ちょっと古いが有名な例は「あるある大事典」)。 そして、マスメディアの腐敗の陰で、ネットが人々の目を覚ますために機能した。 しかし、当然の帰結として、マスメディアが重用してきた権威を疑うことになった(ノーベル賞のみが依然として権威を維持していると思われるのは脅威的である。なぜあの賞だけ世界が一様に評価しているように見えるのか説明できます?)。 確かに、マスメディアにおもねり芸能人もどきとなった知識人(大学教授とは限らない)はたくさんいるし、そういう人たちは深い学問を単純化してみせたり(わかりやすくすることと単純化することは同じではない)、特殊な事例を拡大解釈して一般化してみせたり、結論の出ていないことを言いきって
学問とは何か(その1) - マキペディア(発行人・牧野紀之) 学問とは何か(その2) - マキペディア(発行人・牧野紀之) 牧野先生のドイツ語の授業を受けたことがあります。上に挙げた、学問についてのお話も授業中にうかがって印象に残っていました。お話をうかがうたびに教育に対する真摯さが伝わってきて、教育者として尊敬しています。 牧野先生から教わったことを振り返りつつ、情報学の観点から学問について考えてみます。 学問のあり方 学問とは「現実生活の問題から出発する」ものであり「体系にまとめる」べきであるという意見は授業でもうかがったことがあります。そのときは周期表を例にして、規則を明らかにしたことで新しい発見がどんどん生まれるきかっけになった、というお話をしていただきました。体系が学問を推し進めるパワーになるのは、我々が知的生産に興じる際にまとまりや関わりというものを意識せざるをえないからだと思
2009-05-09(Sat): 総合学術辞典フォーラム−学問の危機と学問2.0 (於・東京都/東京大学 本郷キャンパス) http://www.jcss.gr.jp/forum/sgjforum2009.html に参加。ゴールデンウィークの谷間であり、ほかにも様々な催しがあったせいか、聴衆は決して多くなく、40名くらいであった。 詳細のレポートは機会があればとしたい。なかなか書く内容が難しい。以下は記録として。構成は以下の通りであった。 発表 原島博(元・東京大学)「学は何処より来たりて何処へ向かうのか?」 橋田浩一(産業技術総合研究所)「オントロジーに基づく学術辞典の設計」 高野明彦(国立情報学研究所(NII))「百科事典・専門辞典を基点とする情報アクセス」 武田英明(国立情報学研究所(NII))「Web時代の学術情報流通の方向性を考える」 三宅なほみ(東京大学)「大学の知を教育現場
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