ライオネル・ファイニンガー(1871-1956)は、ニューヨークでドイツ系移民の音楽家の家庭に生れました。16歳でドイツに渡り、ハンブルク、ベルリン、パリの美術学校で学んだ後、ドイツとアメリカの新聞や雑誌に諷刺画を発表し、デビューします。 1907年に始まる絵画との取り組みに転機が訪れたのは1911年のことでした。パリでキュビスムの絵画に出会い、自ら「プリズム・イスム」と名づけることになる独自の透明なキュビスム的絵画を展開し始めます。「光」に満ちた絵画のスタイルは、晩年に至るまでファイニンガーに特有な絵画世界です。 ファイニンガーの芸術的な関心は実に多岐にわたります。1919年、校長グロピウスに招かれ、近代的な造形教育学校バウハウスの初代マイスター(親方)となった彼は、指導する版画印刷工房で自らも熱心に木版を彫り、多くの優れた版画作品を制作してもいます。ファイニンガーが生涯にわたっ