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サブカルチャーとセカイ系に関するprisoner022のブックマーク (5)

  • 部分的な悪としての不快な他者の侵入――実存の問題をどこで決着させるのか? - metamorphosis

    前回は、競争的関係と家族的関係とを対立させることによって、いくつかのサブカルチャー作品において問題になっていることを整理してみた。今日のサブカルチャー作品で問題になっていることを端的に述べれば、それは、未だに失われたことのない故郷を再発見することだと言えるかも知れない。一度喪失してしまった故郷に再び戻るということが問題なのではなく、失われたことなど一度もない故郷に戻ることが問題となっているのである。それは、言い換えれば、家族の発見であったり、家の発見であったりするだろう。しかしながら、そこでの家や家族というものは、失われたものとしてではなく、理想的な場所として、探求の対象となっていると言える。 他者との敵対的な対立が無化される場所。これは理想的な場所ではないだろうか? 『吉永さん家のガーゴイル』に見出すことができるもの、それは、一種の許しではないだろうか? いったい、何が許されるのかという

    部分的な悪としての不快な他者の侵入――実存の問題をどこで決着させるのか? - metamorphosis
  • 二者関係から三者関係へ - metamorphosis

    前回は、現代のサブカルチャー作品を問題にするための視点として、場所というものを持ち出したわけだが、この場所という問題は、結局のところ、そこでの人間関係をどのように考えるかということに集約される問題設定である。しかしながら、集団としての人間関係を扱うというだけでは、非常に漠然としていると言わねばならないだろう。そこで、まず、ひとつの視点として、二者関係から三者関係へ、ということを考えてみたいと思う。つまり、ある人間関係について、それが二者関係か三者関係か、というふうに問うことによって、問題を整理してみようと思うのである。 ここで、二者とか三者とか言ったとしても、二人とか三人とかいうような人数が問題ではない。人数が問題ではなく、そこでの人間関係がどのように構成されているのか、ということが問題なのである。 セカイ系作品でことさらに問題になるのは、やはり、二者関係であるだろう。しかしながら、視点を

    二者関係から三者関係へ - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2006/12/31
    三者関係は、二者関係の彼岸という形で、理想的に提示されている部分がある
  • 「場所」という観点についての問題提起 - metamorphosis

    場所とアイデンティティの問題について、以前からこのブログで問題にしてきたが、それを今回から格的に行なってみようと思う。 「セカイ系」と呼ばれる作品群について問題にすることも、僕にとっては、場所とアイデンティティを問題にすることであった。セカイ系の場所というのは、究極的には、ひとつの心象風景に集約することができるかも知れない。例えば、『エヴァンゲリオン』の劇場版に出てきた公園などがそうした風景である。 新海誠の作品の風景も、そんなふうに理解すべきかも知れない。『ほしのこえ』で語られる「携帯の電波の届く範囲」の世界とはどのような世界だろうか? それは、メールの送り手と受け手の間で共有される世界、「きみとぼく」の世界であるだろう。もちろん、そうした世界が彼らにとって、世界のすべてであるとは思っていないことだろう。その外部にも世界はあるだろうが、そうした世界が彼らにとって重要性をほとんど持ってい

    「場所」という観点についての問題提起 - metamorphosis
    prisoner022
    prisoner022 2006/12/25
    現代のサブカルチャー作品の鑑賞方法というものを考えたときに、ある作品を対象として鑑賞するというよりも、その作品が提示している世界に鑑賞者が没入するという形式が非常に一般的なものになっている
  • 日本のサブカルは今年もますます「痛み」や「悲劇」から遠ざかりました - MIYADAI.com Blog

    ──────────────────────────────────────── 「死にオチ」作品が溢れる日。少しも痛みを感じない。真に痛いのはこちらに突き刺さってくる悲劇のみ。真の悲劇を映画『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』に見出す ──────────────────────────────────────── 【だらしない「死にオチ」を越えよ】 ■過去8年間、年末になるとTBSラジオで宮崎哲弥氏と一緒に年間音楽の総括番組『M2:J-POP批評』を放送し続けている。実は「J-POPは終った」は三年前の物言い。今や常態なので話題にもならない。以降は番組名に反して映画漫画テレビをも取り扱ってきた。 ■番組で私は、年間の音楽映画漫画などのサブカル全体を一言で括ることにしている。昨年は「主語の欠落」。誰が主語であってもいいような入替可能なモチーフの隆盛を言う。今年は「痛みの欠落

    prisoner022
    prisoner022 2006/12/15
    セカイでなく「自分が生きる〈社会〉をちゃんと含んだ〈世界〉」が織りなす理不尽──〈世界〉の根源的未規定性──を描いてこそ、現実の痛みとして突き刺さるだろう
  • http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/008.html

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