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アーティ・ショウ 曲の検索結果1 - 14 件 / 14件

  • ジャズ・トゥナイト 2020年2月22日(ビリー・ホリデイ) - ラジオと音楽

    シリーズJAZZジャイアンツ (11)ビリー・ホリデイ ビリー・ホリデイは1915年4月7日ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。10代の両親の元にアフリカ系アメリカ人として生まれ、人種差別、貧困、戦争、ドラッグ、恋愛様々なものに翻弄された数奇な人生。ジャズ史の中で伝説として語り継がれています。亡くなったのは1959年7月17日。44歳でした。 私も大橋巨泉さんが訳された「奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝」を読みました。今では信じられない人種差別があった時代で、とても悲しい気持ちになりました。 奇妙な果実?ビリー・ホリデイ自伝 (晶文社クラシックス) 作者:ビリー ホリデイ 出版社/メーカー: 晶文社 発売日: 1998/01/01 メディア: 単行本 今日はビリー・ホリデイの壮絶な人生紹介よりは、歌や音楽に注目した特集で23曲もかかりました。 Billie Holiday、Benny

      ジャズ・トゥナイト 2020年2月22日(ビリー・ホリデイ) - ラジオと音楽
    • アンディ・ウォーホルによる最も印象的なアルバム・ジャケット6枚

      Andy Warhol - Photo: Evening Standard/Hulton Archive/Getty Images アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)は、1949年にニューヨークへ移住してからアメリカのポップアートの申し子として有名になるまでの人生の大部分を、フリーランスのコマーシャルアーティストとして働き、多くのアルバム・カバーを制作してきた。 そして名声を得た後も、ウォーホルは生涯にわたってアルバム・アートのデザインを手がけていた。彼はそのキャリアを通じて、カルトヒーローからスーパースターまで、あらゆるジャンルのアーティストのジャケットを何十枚もデザインしたのだ。その中でも特に優れた作品は、彼の他のアート作品と比較しても、十分に肩を並べるものとなった。 この記事では、ウォーホルの最も印象的なアルバム・ジャケットのごく一部を紹介し、その由来を明らかにしよう。

        アンディ・ウォーホルによる最も印象的なアルバム・ジャケット6枚
      • 私のジャズの原点 - さすらう隠居人の日記

        ジャズに興味を持ったのは大学生になってからである。それまでも映画音楽で、スティングのスコット・ジョプリン、死刑台のエレベーターのマイルス・デイビス、華麗なる賭けのミッシェル・ルグランなどを良いと思ったが、それ以上進展することはなかった。 大学生活の後半に、FM東京の深夜放送で油井正一の「アスペクト・イン・ジャズ」を聴くようになり、急速にジャズに傾倒していった。 油井正一(左)とルイアーム・ストロング(昭和28年) 深夜に聴く油井さんの語り口は紳士的で丁寧であった。紹介する曲に対するリスペクトも感じられ、こちらも引き込まれていった。最初はビッグバンドが好きになり、アーティ・ショウ、ベニー・グッドマンのクラリネット、トミー・ドーシー、グレン・ミラーのトローン・ボーン、デューク・エリントン、カウント・ベーシーのピアノなどそれぞれのビッグバンドの特徴を楽しんでいた。 油井正一(右)ベニー・グッドマ

          私のジャズの原点 - さすらう隠居人の日記
        • ジョン・レノン、ラスト・インタビュー|未公開版完全翻訳(Rolling Stone Japan) - Yahoo!ニュース

          1980年12月8日に亡くなるわずか3日前、ジョン・レノンはローリングストーン誌との9時間に及ぶインタビューに臨んだ。 ビートルズの素顔を捉えた、1965年の未発表写真ギャラリー 1980年12月5日(金)、ジョン・レノンはローリングストーン誌の編集者ジョナサン・コットとの9時間以上に及ぶインタビューを受けていた。インタビューはニューヨークのアッパーウエストサイドにあった彼のアパートメントと、レコード・プラント・スタジオで行われた。それから3日後、レノンはスタジオでのミキシング作業を終えて自宅へ戻ったところで殺害されることとなる。インタビューは当初、1981年第1号のカバーストーリーとして掲載される予定だった。ところがレノンの死を受け、コットは急遽レノンの死亡記事に差し替え、インタビューの内容にはほとんど触れることがなかった。実は、インタビューのテープ起こしも完了していなかったのだ。レノン

            ジョン・レノン、ラスト・インタビュー|未公開版完全翻訳(Rolling Stone Japan) - Yahoo!ニュース
          • スタンリー・キューブリックの「作られなかった幻の映画」をめぐって 前編:犯罪と嫉妬と戦争、『ナポレオン』 - cinemania 映画の記録

            0.はじめに 1.犯罪映画と戦争映画 2.さまざまな題材 3.『ナポレオン』 史上もっとも有名な”作られなかった名画” 4.ナチスへの関心 5.1980年代 0.はじめに 映画研究者のフィリッポ・アルヴィエリによれば、確認できるスタンリー・キューブリック監督の未完成プロジェクトは、およそ60作あり、実際に完成させた13作よりもはるかに多い。本記事では、それらをなるべく時代順に沿った形で紹介していく。ただしキューブリックはしばしば複数の企画を並行して進めていたので、記述が前後したり重複する箇所もある。また半生をかけた大きな企画である『A.I.』は、晩年の企画『アーリアン・ペーパーズ』と合わせ後編でまとめて触れることとする。近年のキューブリック研究は、監督が遺した膨大なアーカイヴの検証作業によって新たな進歩を遂げており、本記事では、ほぼ日本語では紹介されていないそれらの成果を反映させることを目

              スタンリー・キューブリックの「作られなかった幻の映画」をめぐって 前編:犯罪と嫉妬と戦争、『ナポレオン』 - cinemania 映画の記録
            • ジョン・レノン、ラスト・インタビュー|未公開版完全翻訳 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

              1980年12月8日に亡くなるわずか3日前、ジョン・レノンはローリングストーン誌との9時間に及ぶインタビューに臨んだ。 1980年12月5日(金)、ジョン・レノンはローリングストーン誌の編集者ジョナサン・コットとの9時間以上に及ぶインタビューを受けていた。インタビューニューヨークのアッパーウエストサイドにあった彼のアパートメントと、レコード・プラント・スタジオで行われた。それから3日後、レノンはスタジオでのミキシング作業を終えて自宅へ戻ったところで殺害されることとなる。インタビューは当初、1981年第1号のカバーストーリーとして掲載される予定だった。ところがレノンの死を受け、コットは急遽レノンの死亡記事に差し替え、インタビューの内容にはほとんど触れることがなかった。実は、インタビューのテープ起こしも完了していなかったのだ。レノンの死から30年が経ち(※訳注:2010年12月に米ローリングス

                ジョン・レノン、ラスト・インタビュー|未公開版完全翻訳 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
              • サード・ストリーム - Wikipedia

                サード・ストリーム(Third stream、「第3の流れ」の意)は、ジャズとクラシック音楽の融合された音楽ジャンルである。この用語は、1957年に作曲家のガンサー・シュラーがブランダイス大学での講義で造ったもの。インプロヴィゼーション(即興)は一般的にサード・ストリームの重要な要素と見なされている[1]。 1961年、シュラーはサード・ストリームを「ジャズとクラシック音楽のほぼ中間に位置する新しいジャンルの音楽」と定義した[2]。彼は「定義上、『サード・ストリーム・ジャズ』のようなものは存在しない」と主張した[3]。サード・ストリームの両側の批評家たちが自分の好む音楽を他の音楽で汚すことに反対したが、そのような努力は「彼らの伝統への攻撃」であると感じたジャズ・ミュージシャンによって通常より激しい反対がなされたと述べた。彼は「音楽を『別個の第3の流れ』として指定することによって、他の2つの

                • ビリー・ホリデイ - Hungry Freaks

                  kotobank.jp ビリー・ホリデイの1930~40年代の歌声を聴いていると、この声をうまく言い表す言葉がないものか、とつい考えてしまうことがあります。曲によってはベッシー・スミスふうな歌い方をしていることもありますが、特にバラードとかゆったりめの曲を歌うときの声を的確に表現する言葉がなかなか見つかりません。 「艶がある」「ハスキー」「クール」「優しい」「哀しげ」「甘い」「渋い」…、いずれも合っていそうでいて、どうもぴったり来ない。「高度にコントロールされた猫なで声」なんていうのも考えてみましたが、やっぱり無理があります。 もちろん無理に言葉に言い表そうとしなくても、じっくり耳を傾け、浸りきればいいのですが…。 www.youtube.com もどかしいのは、彼女の歌が「ジャズ」の範疇にぴったり収まっていないような感じがするところも同様です。 例えばサラ・ヴォーンとかエラ・フィッツジェ

                    ビリー・ホリデイ - Hungry Freaks
                  • Mantovani - Sigmund Romberg : Softly As In A Morning Sunrise

                    シグマンド・ロンバーグ(Sigmund Romberg, 元はRomberg Zsigmond, 1887年7月29日 - 1951年11月9日)は、ハンガリー生まれのアメリカの作曲家。 ユダヤ人の家庭に生まれ、ウィーンで技術者としての勉強の傍ら作曲も学び、イギリスを経て1909年に渡米し、オペレッタの作曲で成功を収めた。のちのミュージカルの先駆をなす彼の曲は、ロンバーグ・メロディとして親しまれた。 とりわけ、オスカー・ハマースタイン2世と共作したブロードウェイ・ミュージカル『ニュー・ムーン(英語版)』の挿入歌「朝日のごとくさわやかに」「恋人よ我に帰れ」は、ジャズのスタンダード・ナンバーとして、日本人にも良く知られている。『学生王子』も、今日ミュージカルとして扱われる作品だが、ドイツの古都を舞台にし曲調もウィンナ・オペレッタの名残が濃いこともあり、日本でも二期会などクラシック系の団体が上演

                      Mantovani - Sigmund Romberg : Softly As In A Morning Sunrise
                    • 恋人よ我に帰れ - Wikipedia

                      ジョージ・ウィリアムズ (George Williams) の編曲・指揮によるバーブラ・ストライサンドのバージョンは、1962年11月に彼女の2枚目のシングルとして、「My Coloring Book」と両A面扱いでリリースされた[1]。 この曲は、マイク・バーニカー (Mike Berniker) のプロデュースによって、ストライサンドの最初のアルバム・セッションより前にレコーディングされ、シングル盤としてラジオ局に送られた[2]。 その後、1963年に、ストライサンドの2枚目のアルバム『The Second Barbra Streisand Album』に収録するための再録音が行われた。ストライサンドにとって最初のテレビ特番だった『My Name is Barbra』では、この歌を悲喜交々に歌い上げ、その多彩な芸風を見せつけた。ストライサンドは2000年の「タイムレス・ツアー (Tim

                      • ジャズの無双時代:アメリカが生んだひとつの真のアートの台頭と隆盛

                        21世紀に入って20年近くが経過した現在、多くの人々の中では、ジャズはメインストリームの周辺的な立場に追いやられた音楽という印象かも知れない。勿論、言うまでもないことだが、“ジャズのゲットー”から這い上がり、メインストリームのシーンへとクロスオーヴァーして、ケタ外れな枚数のレコードを売り上げているミュージシャンたちもいないわけではない――最近で言えばグレゴリー・ポーターやダイアナ・クラールあたり――しかし総体的に見れば、もはやジャズからベストセラー・リストに食い込むのは難しいと言うべきだろう。 だが、かつては確かにジャズがポピュラー・ミュージックとして幅を利かせていた時代があり、世界中のラジオやジュークボックス、ナイトクラブやコンサート・ホールからはいつもジャズが聴こえていたのだ。フラッパーからビートニク全盛時代まで、ジャズは向かうところ敵なしだった。だが、その35年余の音楽界における権勢

                          ジャズの無双時代:アメリカが生んだひとつの真のアートの台頭と隆盛
                        • ビル・エヴァンスはユダヤ人か、あるいはユダヤ人とは誰か【ヒップの誕生】Vol.43 | ARBAN

                          ジャズのプレーヤーの中で、黒人に次いで多いのがユダヤ人であるとされる。その枠をコンポーザーやプロデューサー、あるいはレコード会社や音楽出版会社の経営者にまで広げれば、ジャズに関わってきたユダヤ人の数はさらに倍することになる。しかし、多くの日本人にとってユダヤ人は決して身近な存在ではないし、ジャズにおける「ユダヤ性」が語られる機会も多くはない。「ジャズと黒人」というテーマに比べて光があてられることが圧倒的に少ない「ジャズとユダヤ人」という陰のテーマ──。連載「ヒップの誕生」の最終章では、このテーマを数回にわたって掘り下げていく。 黒人と白人が協力してつくり上げた音楽 ジャズは黒人音楽か?──。この問いは、「ゴスペルは黒人音楽か?」「ブルースは黒人音楽か?」「R&Bは黒人音楽か?」「ファンクは黒人音楽か?」「ロックンロールは黒人音楽か?」「ラップは黒人音楽か?」といった問いに比べて、答えるのが

                            ビル・エヴァンスはユダヤ人か、あるいはユダヤ人とは誰か【ヒップの誕生】Vol.43 | ARBAN
                          • 細野晴臣 50周年記念公演で音楽ルーツと現在地を実感 東京国際フォーラム2日間をレポート

                            1969年に伝説のバンド“エイプリル・フール”のベーシストとしてデビューしてから、今年で音楽活動50周年を迎えた細野晴臣。はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、イエロー・マジック・オーケストラ、さらにソロアーティストとして、ロック、テクノ、ワールドミュージック、アンビエントなどジャンルを超えた活動を行い、国内外の音楽シーンに多大な影響を与え続けてきた細野が、2019年11月30日、12月1日、東京国際フォーラム ホールAで50周年記念公演を開催した。 『細野晴臣 50周年記念特別公演』と銘打たれた初日は、10年以上、細野と活動を共にしてきたバンドメンバー高田漣(Gt)、伊賀航(Ba)、伊藤大地(Dr)、野村卓史(Key)を引き連れ、20世紀のポップミュージックをルーツに持つ細野晴臣の現在地を実感できるステージが繰り広げられた。 (1日目/『細野晴臣 50周年記念特別公演』) 開演前のBGM

                              細野晴臣 50周年記念公演で音楽ルーツと現在地を実感 東京国際フォーラム2日間をレポート
                            • ジョン・レノンの死から40年、生前最後のロングインタビュー完全翻訳 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

                              1980年12月8日にジョン・レノンが亡くなり、今年で40年が経つ。あの悲劇となった日からわずか3日前、ジョンは、ローリングストーン誌との9時間に及ぶインタビューに臨んだ。生前最後に受けた本格的なインタビューの全文を掲載する。 1980年12月5日(金)、ジョン・レノンはローリングストーン誌の編集者ジョナサン・コットとの9時間以上に及ぶインタビューを受けていた。インタビューニューヨークのアッパーウエストサイドにあった彼のアパートメントと、レコード・プラント・スタジオで行われた。それから3日後、レノンはスタジオでのミキシング作業を終えて自宅へ戻ったところで殺害されることとなる。インタビューは当初、1981年第1号のカバーストーリーとして掲載される予定だった。ところがレノンの死を受け、コットは急遽レノンの死亡記事に差し替え、インタビューの内容にはほとんど触れることがなかった。実は、インタビュー

                                ジョン・レノンの死から40年、生前最後のロングインタビュー完全翻訳 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
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