「本土」への疑念は、70年前に芽生えていた。1952年4月28日。戦後沖縄にできたラジオ放送局で、アナウンサーとして活躍していた川平朝清さん(94)は、この日のサンフランシスコ講和条約発効を、研修中の東京で迎えた。独立に沸く本土の新聞記事を読んだ衝撃を、今も覚えている。(安藤恭子)
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今年は戦後七〇年にあたります。「戦争を知らない世代」が増えたのも、不戦を誓った日本国憲法第九条の存在があってこそ。ところが安倍政権は、日本をふたたび戦争のできる国にするため憲法改正をねらっています。過去の戦争で日本が犯した過ちについても、“日本軍が性奴隷にした”というのは「言われなき中傷」(「慰安婦」問題について二〇一四年一〇月、安倍首相)と述べるなど、真実を歪めようとしています。 中里チヨさんは、元従軍看護婦。「日本軍の管理下に慰安婦さんがいた」と証言します。 私が従軍看護婦として、中国の海南島に行ったときに見聞きしたことをお話しします。 18歳で従軍看護婦に 私は一九四四年三月二五日に看護学校を卒業し、志願して軍属の従軍看護婦になりました。一八歳でした。 四月一日からは、従軍前の訓練を受けるため、東京の目黒雅叙園にあった海軍第二病院に召集され、「日本の軍隊として恥ずかしくない看護婦にな
安全保障政策は危惧を押し切って集団的自衛権行使容認へ進み、戦争を知らない世代は総人口の8割に上る。 静岡新聞の県民意識調査(2014年末実施)では約4割が再び戦禍に巻き込まれるのではないかとの不安を挙げる。 今日の平和は多くの戦没者と、焦土を生き抜いた人々の上に築かれてきた。 重い荷を引きずるように歩んできた数知れない人生の轍(わだち)。 その一つ一つを県内にたどり、この国の行く道を見詰めた。同じ轍(てつ)を踏まないために。 私たちは今、平和な時代を生きている。 まるで自らが戦争に巻き込まれることなど、二度とないかのように。 だが、振り返ってみれば、戦前を生きた人々も同じだったのではないか。 当時、日本が歩んでいる道が戦争へとつながり、 とてつもない犠牲を生み出すことになるなど、一体誰が予想できただろう。 戦前から戦中、戦後、そして現在へ。 日本の歩みが凝縮されたこのまちは、 あの桜の花び
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