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  • 【画像あり】海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく : 暇人\(^o^)/速報 - ライブドアブログ

    【画像あり】海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく Tweet 1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:09:44.80 ID:JNypWjEk0 ばあちゃんの家で、曾祖父が生前出していた自伝をもらってきた 俺は曾祖父とは小さい頃1、2度しか会ったことがなくて これまでおぼろげにしか知らなかったことが、詳しく書いてあってなかなか面白かったんで 昔の資料と思って掲載画像を交えながら淡々と語っていく ちなみに俺は軍隊のことは言うほど詳しくないので、そこは悪しからず 5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:11:23.72 ID:JNypWjEk0 さて、曾祖父は今に至るまで一族で唯一の職業軍人 親戚みんな身体が小さかったんで軍人に向かず、内心忸怩たる思いを抱いていたが、 海軍に行った先輩に

      【画像あり】海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく : 暇人\(^o^)/速報 - ライブドアブログ
    • ソニーグループポータル | 設立趣意書

      1946年(昭和21年)1月、ソニーの創業者のひとり、井深 大(いぶか まさる:ファウンダー・最高相談役)が起草した。 「東京通信工業株式会社設立趣意書」 ※東京通信工業株式会社は、1958年(昭和33年)に社名を現在のソニー株式会社に変更した 東京通信工業株式会社設立趣意書 - 井深 大 戦時中、私が在任していた日本測定器株式会社において、私と共に新兵器の試作、製作に文字通り寝食を忘れて努力した技術者数名を中心に、真面目な実践力に富んでいる約20名の人たちが、終戦により日本測定器が解散すると同時に集まって、東京通信研究所という名称で、通信機器の研究・製作を開始した。 これは、技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的であった。戦時中、すべての悪条件のもとに、これらの人たちが孜々(しし)として使命達成に努め、大いな

        ソニーグループポータル | 設立趣意書
      • 吉本隆明 - Wikipedia

        吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年〈大正13年〉11月25日 - 2012年〈平成24年〉3月16日)は、日本の詩人[1]、評論家。「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い。漫画家のハルノ宵子は長女。作家の吉本ばななは次女。 米沢高等工業学校(現在の山形大学工学部)卒業。 東京工業大学電気化学科卒業。学位は学士。 第二次世界大戦後、詩人として出発し、詩集『固有時との対話』(1952年)などを発表。次いで『文学者の戦争責任』(1956年)、『転向論』(1958年)などで評論家の地位を確立した。東京下町の生活と文化を思想の下地にして、多方面の時代の問題について積極的に批評を展開。『高村光太郎』(1957年)、『共同幻想論』(1968年)、『ハイ・イメージ論』(1989年)など多数の著書があり、長きにわたって日本の論壇をリードした。 生涯[編集] 1920年代 - 1940

          吉本隆明 - Wikipedia
        • 伊藤博文 - Wikipedia

          伊藤 博文(いとう ひろぶみ、旧字体:伊藤󠄁 博󠄁文󠄁、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家[1]。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 大久保利通らの路線を受け継ぎ初代内閣総理大臣に就任し近代立憲主義社会の基礎を築いた。 4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め一次内閣時には大日本帝国憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道を開いた[1]。他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した[1][2]。 百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引したので今太閤の代名詞も持つ日本、またアジアの近代史を代表する人物の一人である。

            伊藤博文 - Wikipedia
          • セイの法則 - Wikipedia

            セイの法則(セイのほうそく、セーの法則、英: Say's law, 仏: Loi des débouchés)とは「供給はそれ自ら需要をつくりだす」という命題に要約される経済学上の見解[1]。一般に経済を四つの分野(生産物市場、労働市場、債券市場、貨幣市場)に分類し、貨幣市場を除いた残りの財市場において「全体としての需要と供給がつねに等しい」と考える体系がセイの法則であると考えられている[注釈 1]。「非貨幣市場の総供給と総需要は常に一致する」という原則[2]。 フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイによって発見され、「セイ法則」、「販路説」などとも呼ばれる[2]。「近代経済学の父」リカードが採用したことから、マルクス、ワルラス、ヒックスといった多くの経済学者によって継承されたが[3]、ケインズ『一般理論』(1937年)によって否定され、その問題点が広く認知されるようになった[4]。シ

            • 第4章 混乱による被害の拡大

              - 179 - 第4章 混乱による被害の拡大 第1節 流言蜚語と都市 1 「流言」対象化の困難 大震災下での流言は、いつどこから発生し、誰を通じて、どのように伝わっていったのか。 事実の基本に属する問いではあるが、正確に押さえるのは大変に難しい。伝達プロセスに関 係した主体を丹念にたどり、時点や場所などを確定する、遡及的で広範囲にわたる調査検証が 必要だからである。しかし、関東大地震という災害の情報空間を満たしていた数多くの流言に ついて、その一つ一つの伝達プロセスを徹底して究明することは不可能に近い。その理由の一 つに、まず「流言」という現象それ自体の捉えにくさと記録のされにくさがある。 (1) 流言の気づきにくさ 第一に、流言は自覚されにくく、また、隠蔽されやすい。すなわち、流言であることは、事 後的に明らかになる場合が多く、伝達プロセスに巻き込まれた当事者にしても、伝えたことに あま

              • 藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房): 栽培生活blog

                平取トンコリの会 NOTO〜凪〜 トンコリを弾いて楽しんでいる人たちの、ゆるーい集まりです。 声に出して読んでみた 「小さな…放送局」や「小さな…語り小屋」のバックアップのつもりで始めましたが、ケロログよりレスポンスがいいので、こちらをメインにしようかと検討中。 小さな小さな語り小屋 「小さな小さなラジオ放送局」の続編。今度は「語り小屋」です。 小さな小さなラジオ放送局 ボイスブログ。朗読を中心に。のんびり、ゆっくり、更新。 藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業 「自然との共生」が生んだ「民族絶滅」』(柏書房)、読み終わりました。いやー、すごい人間ドラマですね。「農」に関わる人は、自分がやっていることを少しでも相対化して自覚できるようにするためにも、この本は、絶対に読んだほうがいいです。 以下、感想を述べていきます。引用は、すべてこの本からです。著者の藤原辰史(ふじはらたつし)さんの地の文で

                  藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房): 栽培生活blog
                • 日本巫女史 - Docs

                  日本巫女史 目次 巻頭小言 総論 第一章 巫女史の本質と学問上の位置 第一節 巫女の種類と其名称 巫女の二大分類—第一は神和系に属する神子の名称—古今に渉り約二十六—第二は口寄系に属する市子の俚称—各地に亘り約四十三—まだ此の外にも十数種ある 第二節 巫女史の意義と他の学問との関係 巫女史の研究は他の多くの学問に交渉を有つ—巫女史という名称に就いて—巫女史の内容と其の範囲—巫女史と政治史との関係—巫女史と祭祀史との関係—巫女史と呪術史との関係—巫女史と文学史との関係—巫女史と経済史との関係—巫女史と売笑史との関係—巫女史と法制史との関係—巫女史と原始神道史との関係その他 第三節 巫女史の学問上に於ける位置 文化史に於ける巫女史の地位—原始神道に於ける巫女史の地位—民俗学に於ける巫女史の地位 第二章 巫女史の研究方法 史料は出来るだけ多く蒐集—史料は厳重に批判して採択—史料の整理と其の解釈—

                  • 宇垣纏 - Wikipedia

                    宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。 生涯[編集] 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない[1]。岡山中学校を経て1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校[2]。同期に大西瀧治郎、山口多聞、多田武雄ら[3]。1912年(明治44年)7月17日、海軍兵学校を成績順位144名中第9位で卒業し[2]、少尉候補生となる。 1918年(大正7年)12月、海軍大尉に進級。1919年(大正8年)12月、海軍砲術学校高等科学生を次席で修了[2]。1922年(大正1

                      宇垣纏 - Wikipedia
                    • 重巡洋艦「足柄」の呼称「飢えた狼」についての新たな発見まとめ | Kousyoublog

                      旧日本海軍の重巡洋艦「足柄」のニックネームとして知られる「飢えた狼」について、最近、次々と新資料の存在が明らかになっていることが、話題になっていました。以前「艦これの愛すべき残念美人、重巡洋艦「足柄」はなぜ「飢えた狼」なのか」という記事を書いたこともあり、改めて最近明らかにされた情報をまとめておきます。 詳しくは、 「重巡洋艦「足柄」さんは別に飢えていなかった – Togetterまとめ」 「【小報告】小林宗之助司令官の講演と「飢えた狼」について : 「飢えた狼」の探索」 有村悠さん、若林宣さんによる発見を中心に、足柄の「飢えた狼」について情報がまとめられています。 英国空母イーグルと比較しての「狼」 上記の記事を書いてからも少し「飢えた狼」発言が無いか英国の当時の新聞記事等検索してみたのですが、やはり見つからないままでした。今回明らかになったのは、「国立公文書館アジア歴史資料センタ

                        重巡洋艦「足柄」の呼称「飢えた狼」についての新たな発見まとめ | Kousyoublog
                      • ソニーグループポータル | 設立趣意書

                        1946年(昭和21年)1月、ソニーの創業者のひとり、井深 大(いぶか まさる:ファウンダー・最高相談役)が起草した。 「東京通信工業株式会社設立趣意書」 ※東京通信工業株式会社は、1958年(昭和33年)に社名を現在のソニー株式会社に変更した 東京通信工業株式会社設立趣意書 - 井深 大 戦時中、私が在任していた日本測定器株式会社において、私と共に新兵器の試作、製作に文字通り寝食を忘れて努力した技術者数名を中心に、真面目な実践力に富んでいる約20名の人たちが、終戦により日本測定器が解散すると同時に集まって、東京通信研究所という名称で、通信機器の研究・製作を開始した。 これは、技術者たちが技術することに深い喜びを感じ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえるのが第一の目的であった。戦時中、すべての悪条件のもとに、これらの人たちが孜々(しし)として使命達成に努め、大いな

                        • スマラン事件裁判資料から抜粋 - yasugoro_2012's diary

                          界隈での議論で気になるところがあるので資料を抜粋しておく。 バタビア裁判における慰安所関係事件資料で公開されている「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」からバタビア裁判で死刑判決を受けた岡田少佐と幹部候補生隊隊長の能崎少将の判決文を一部抜粋した。 岡田少佐の判決文より一部抜粋 被告は婦女子の選択は、州庁職員に全然委せありたるを以て、何等の干渉をも行はずと主張あり。更に、被告は、司令部の許可は婦女は自由意志にて、抑留所を離れ、又、自由意志にて慰安所に務むべきことの条件づきなりしことを知りありたり。而も斯かる事実は、婦女子が選択の目的を充分に知らされ、同意書に署名をする前に、その結果に関し充分考慮する機会を与へられざるべからざりしことを意味するものなり。又この自由意志に基くべしとの要求は、当然、同意書の署名に際し、充分なる監督を行ふ将校は、之等婦人が事実充分にその内容を知らされ、自由意

                            スマラン事件裁判資料から抜粋 - yasugoro_2012's diary
                          • ekesete1のブログ

                            2033年04月24日11:29 ブログ目次 カテゴリ ekesete1 Comment(3) あちこちエントリが散らばって読みにくいので、ここを目次的なページにしたい。 朝鮮半島関連 1.併合以前の朝鮮半島 「漢字・ハングル混じり文の考案は福沢諭吉」説の真偽/韓国併合以前のハングル使用/「叩頭」とは頭を地にたたきつけることだ、という嘘/併合前から朝鮮半島では米を食べていた/倉山満とかいう”憲政史家”について/併合前・後の朝鮮半島の人口について/併合前朝鮮に染料は無く衣服は白だけだった、という嘘/併合前朝鮮で女性や奴婢に名前が無かったという嘘/中国大陸と人糞(途中)2.併合経緯 日本は朝鮮を侵略していないというウソ 1894年 朝鮮王宮を武力占拠/日本は朝鮮を侵略していないというウソ 1905年 伊藤博文が韓国皇帝を脅迫し、第二次日韓協約=保護国化を強要/乙未事変(朝鮮王妃閔妃殺害事件)内

                              ekesete1のブログ
                            • 実は両者ミスだらけ?本当はこうだった「鳥羽伏見の戦い」勝利の影に隠れた意外な真相とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!

                              はじめに 一般に流布されている通説と現実との乖離が大きい幕末維新史のなかでも、戊辰戦争の発端に関することは、最も誤解が多いと思います。 戊辰戦争の「戊辰」とは、慶応4年=明治元年の干支で、この年の正月早々に大坂から北上した旧幕府軍と、京を根拠地とする新政府軍とが激突した、鳥羽伏見の戦いをもって「開戦」とみなしています。 しかし、その年越し前に発生した江戸薩摩藩邸焼き討ち事件も、旧幕府側は正規軍を動員して軍事行動をとっているため、事実上の開戦だと考える研究者もいます。 それはさておき、一般に認知されている通説とは、学術的に確定された定説のことではありません。この記事では、誤解に基づいた通説によらず、学術的に正しいことを書いていきます。 また、鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争勃発とします。このとき旧幕府軍が宣戦布告に相当する、薩摩藩討伐の趣旨を述べた「討薩ノ表」を携えていたからです。薩摩藩邸焼き

                                実は両者ミスだらけ?本当はこうだった「鳥羽伏見の戦い」勝利の影に隠れた意外な真相とは | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
                              • 災害と日本人-「心理的現象」としての自然災害- 仲田誠

                                災害と日本人 -「心理的現象」としての自然災害- 仲田誠 <東京大学> 1 はじめに 人間の心理面,あるいは行動面での特徴は,危機状況下での人間の反応・対の分析を通じてより一層明らかになる部分が多分にあるのではないだろうか。ふだんは表面上に現われてこない人間の特性・本質が,切迫した状況下においてはじめてわれわれの目にとらえられるようになるということが十分に考えられるのである。その意味で,自然災害一危機・緊急状況の典型例一に直面した人間の反応の特色・傾向は,われわれ社会科学・人文科学の研究者にとって,貴重な研究材料である。 以上のような間題意識を背景にして,ここでは,日本人と自然災害との関係について考察を試みてみようと思う。考察のポィントは二つある。一つは,自然災害は日本人の前にどのような「精神的・心理的現象」となって現われるか,ということについての検討である。日本人にとって自然災害はどのよ

                                • 植民地朝鮮での志願兵制度

                                  (*注1) しかし高木健一著「戦後補償の論理」によると、 「行政組織の末端である「面」では、学校卒業者を脅迫したり、父親を拘留して家族に圧力をかけたり、 名前だけ貸せと騙して志願させるという方法が行なわれた」 ということがあったため、大勢の志願者が集まったということだそうです。 しかし、この本ではソース元が明らかにされていませんので、多少自分で調べてみました。 1.帝国議会での志願兵制度についての答弁 1943年2月26日、「帝国議会貴族院委員会」にて、次のような答弁が行なわれました(この部分は「創氏改名」と重複でスマソ!)。(*注2) (水野錬太郎)「・・・・それから民心を把握することが必要であると云ふことの御話がありましたが、それは其の通りでありますが、時に依ると総督府の上の方の人はさう云ふ考へを持って居るかも知れぬが、地方等へ行って下級の人等が、動もすれば朝鮮の人に圧迫を加へると云ふ

                                  • 第4章 混乱による被害の拡大 (内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第2編】)(PDF)

                                    第4章 混乱による被害の拡大 第1節 流言蜚語と都市 1 「流言」対象化の困難 大震災下での流言は、いつどこから発生し、誰を通じて、どのように伝わっていったのか。 事実の基本に属する問いではあるが、正確に押さえるのは大変に難しい。伝達プロセスに関 係した主体を丹念にたどり、時点や場所などを確定する、遡及的で広範囲にわたる調査検証が 必要だからである。しかし、関東大地震という災害の情報空間を満たしていた数多くの流言に ついて、その一つ一つの伝達プロセスを徹底して究明することは不可能に近い。その理由の一 つに、まず「流言」という現象それ自体の捉えにくさと記録のされにくさがある。 (1) 流言の気づきにくさ 第一に、流言は自覚されにくく、また、隠蔽されやすい。すなわち、流言であることは、事 後的に明らかになる場合が多く、伝達プロセスに巻き込まれた当事者にしても、伝えたことに あまり触れたがら

                                    • 大東亜戦争の真実、外国から見た日本の真実、南京虐殺

                                      大東亜戦争の真実 [これだけは知っておきたい大東亜戦争]から、抜粋致しました。 尚、米国は東京裁判に対し謝罪しています(「非を認め謝罪しているアメリカ」「ブッシュ大統領の靖国参拝の申し出」「ルーズベルトの罪状:日米戦争を起こしたのは誰か」参照)。謝罪の申し出を拒否したのは日本の政界と官僚でした。私達は自力で自虐史観から脱出しなければ成りません!! 本書前書きより 毎年八月十五日の終戦記念日が近づくたびに、総理の靖国神社参拝や先の大戦を巡っての話題が世間を賑わし、戦争を題材にしたテレビドラマや特集番組も数多く放映されます。しかし、それらのほとんどは、極めて偏った歴史観(自虐史観)に基いて制作されており、終戦六十年を経ても尚、日本人の間にごくごく基本的な歴史事実が誤って信じられていることを強く感じざるを得ません。 本書は、斯かる状況を憂い、大東亜戦争の基礎的な歴史事実を一人でも多くの方々に知っ

                                        大東亜戦争の真実、外国から見た日本の真実、南京虐殺
                                      • 第二次世界大戦前における「植民地」言説を巡る一考察 木村 幹

                                        103 はじめに 英語の文献では、日韓併合のことを「アネ クセイション」 (annexation)と表現する。 これは「植民地化」を意味する「コロナイゼ ーション」 (colonization)とは概念が異なる。 前者は従属関係ではなく対等という意味合 いであるが、後者には征服や略奪が伴ってい る。 前述したように、日韓併合について、ほと んどの英語文献では「アネクセイション」と 書かれている。韓国、台湾併合時代に、帝国 大学がそれぞれ韓国と台湾に設立されている ことからも、植民地支配ではなく併合であっ たことは明らかだろう1 。 慰安婦問題や徴用工問題、更には歴史教科 書問題や靖国参拝問題。所謂「過去の歴史」 を巡って対立する両国の議論において、その 根幹を占める議論の一つがそもそもの日本に よる朝鮮半島支配をどの様に考えるかであ る。韓国憲法前文の文章に典型的に表れてい る様に、韓国に

                                        • 「韓国側から併合を願い出た」というウソ(1) : ekesete1のブログ

                                          2016年05月19日10:55 「韓国側から併合を願い出た」というウソ(1) カテゴリ日韓関係 ekesete1 Comment(0) 「韓国がお願いしてきたんだ」というデマでよく根拠にされるのが一進会の合邦声明だが、それについては以前説明した 池田信夫氏「一進会の合邦運動に百万人署名」の真偽 そして一進会の他にもう一つ根拠としてしばしば挙げられるのが、ある韓国メディア記事である。 これが日韓併合の経緯だ! 2013/09/09 09:29 本音(あまり気が進まない)を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用の側近である、新小説「血の涙」で知られる李人植が密使として動いたのだ〔ー2001.08.27.中央日報〕 http://asvaghosa.blog.fc2.com/?mode=m&no=8 中央日報2001.08.27の記事【噴水台】韓日合邦の

                                            「韓国側から併合を願い出た」というウソ(1) : ekesete1のブログ
                                          • 単語家族 和語編

                                            【体】 <み> 中身 身 み 禊 みそぎ =身そそぎ 自 みずから =身つから 蛻 もぬけ =身脱げ 幹 みき =身木 孤児 みなしご =身無し子 実 み 実る・稔る みのる =実成る 耳 みみ 顔についている実のような形のもの 木菟・角鴟 みみずく =耳付く。耳のような羽毛があることから。 空しい・虚しい むなしい =実無し 骸・躯 むくろ =みから(身幹) みすぼらしい みすぼらしい =身+すぼむ+らしい。身が細くて貧弱。 のみ のみ =~の身。そのこと一つに限る意を表す助詞。「学生のみ」等。 <から> 外殻 殻 から 体 からだ 亡骸 なきがら 空 から 外側だけで、中身は空 空っぽ からっぽ 軽い かるい からになって、軽くなる 軽やか かろやか 軽んずる かろんずる 枯れる かれる 死んで、からになる 枯らす からす 殺す ころす 「枯らす」の転 木枯・凩 こがらし 尽れる・末枯

                                            • 海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく : あじあにゅーす2ちゃんねる-2chアジアニュース-

                                              1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:09:44.80 ID:JNypWjEk0 ばあちゃんの家で、曾祖父が生前出していた自伝をもらってきた 俺は曾祖父とは小さい頃1、2度しか会ったことがなくて これまでおぼろげにしか知らなかったことが、詳しく書いてあってなかなか面白かったんで 昔の資料と思って掲載画像を交えながら淡々と語っていく ちなみに俺は軍隊のことは言うほど詳しくないので、そこは悪しからず 海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1329736184/ 1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:09:44.80 ID:JNypWjEk0 ばあちゃんの家で、曾祖父が生前出していた自伝をも

                                              • 終戦前後の中国古典学者|棋客

                                                最近、太平洋戦争真っ只中の時期に、中国古典を研究する学者たちがどのような発言をしているのか、妙に気になってきました。日本と中国が戦争状態に突入する中で、中国古典を研究する学者がどのような態度を取ったのかということは、現代に同じく中国古典の研究を志す私も知っておかなければならないと考えたからです。 中国史・東洋史の学者に関する動きであれば、私でも聞いたことのある話がいくつかあります。例えば、白鳥庫吉は「満鮮地理歴史調査部」を立ち上げて満州や朝鮮に関する歴史・地理に関する研究を進めましたが、これは当時の国策(満州・朝鮮の支配)にコミットする目的がありました。 白鳥庫吉の学問については、吉澤誠一郎氏の「白鳥庫吉と日本における東洋学の形成」という講義がオンラインで公開されていますので、ぜひご覧ください。 また、「満鮮地理歴史調査部」でどのような研究が行われたのか、また参加した研究者が「満州史」「朝

                                                  終戦前後の中国古典学者|棋客
                                                • なぜ会津戦争は起こったのか

                                                  会津籠城戦 明治元年九月二十二日、会津鶴ヶ城下甲賀町に真紅の大毛氈が敷かれた。会津武士達の血の色とも言われるその上で、会津藩主松平容保は明治新政府に降伏開城を申し出る。会津藩士達は、この大毛氈を小さく切り刻んで持ち帰った。これを「泣血氈」という。この屈辱を忘れまいとする誓いの品である。 八月二十三日から一ヶ月もの間、会津鶴ヶ城は一日数千発という激しい砲撃に晒されている。白虎隊の死、娘子軍、老若男女を問わず、会津藩士達は鶴ヶ城に立て籠もって戦い続けた。孤立無援。助けの手を差し伸べる者もない。それは絶望的な戦いだった。 そして九月二十二日、会津藩は「降参」の二文字を城門に掲げる。ここに悲劇の会津戦争は終わりを告げた。 なぜ会津藩は、ここまで戦わねばならなかったのか。なぜそうなってしまったのか。悲劇の根源を探ってみたい。 討幕の密勅と江戸攪乱計画 戊辰戦争は、この討幕の密勅からはじまった

                                                  • 天竺 - Wikipedia

                                                    天竺(てんじく)とは、中国や朝鮮、日本が用いたインドの旧名[1]。ただし、現在のインドと正確に一致するわけではない。 由来[編集] 玄奘『大唐西域記』の記述をもとに描かれた歴史地図(アレキサンダー・カニンガムの"The Ancient Geography of India"(1871年)に収録)。図中のC, N, E, S, W は、『大唐西域記』に記された中印度・北印度・東印度・南印度・西印度のおおよその領域を、赤色の線は玄奘の旅行路を示す。 中国人がインドに関する知識を得たのは、張騫の中央アジア(後年の用語で言う西域)探検によってであった。司馬遷の『史記』では、インドを身毒(しんどく)の名で記している(大宛列伝、西南夷列伝)。天竺の名は『後漢書』に見える(西域伝「天竺国、一名身毒、在月氏之東南数千里」)。また天篤という字も使われた[2]。 インダス川のことをサンスクリットで Sindh

                                                    • (PDF)「緊急事態」に関する資料【最終確定版】 衆憲資87号 H25.5

                                                      衆憲資第87号 「緊急事態」に関する資料 平 成 2 5 年 5 月 衆議院憲法審査会事務局 この資料は、衆議院憲法審査会における調査の便宜に供するため、幹事会の協議 決定に基づいて、衆議院憲法審査会事務局において作成したものです。 この資料の作成に当たっては、調査テーマに関する諸事項のうち関心が高いと思 われる事項について、衆議院憲法審査会事務局において入手可能な関連資料を幅広 く収集するとともに、主として憲法的視点からこれに関する国会答弁、主要学説等 を整理したものですが、必ずしも網羅的なものとなっていないことにご留意くださ い。 目 次 第1 緊急事態(非常事態)に関する論点メモ······························· 1 第2 緊急事態と憲法についての各党の見解································· 2 第3 国家緊急権の憲法上の位

                                                      • untitled

                                                        Discussion Paper Series No. J78 2 2007 3 第 2 次大戦前の日本における財政の維持可能性 鎮目 雅人* 神戸大学 経済経営研究所 E-mail:shizume@rieb.kobe-u.ac.jp 2007 年 3 月 [要旨] 近代史上、日本は第 2 次大戦直後に一度、財政破綻した。本稿では、第 2 次大戦に至る 日本の財政運営がいつから維持可能でなくなったか、その背景にどのような要因が働いて いたかを検討する。まず、叙述的資料、データならびに先行研究をもとに、第 2 次大戦前 の日本の公的債務について概観する。次に、公債の中立性命題の検証、経済の動学的効率 性の検証、Bohn 検定、の 3 段階からなる財政の維持可能性の数量的分析を行う。さらに、 上記の数量的分析の結果の解釈について、経済史、政治史を含む先行研究や最近公開され た歴史的資料等をもと

                                                        • 巡洋戦艦 - Wikipedia

                                                          巡洋戦艦の発達[編集] 最初期の「巡洋戦艦」的な軍艦の一つは、ロシア帝国海軍のペレスヴェート級戦艦(艦隊型装甲艦)であった[54]。対巡洋艦戦闘と通商破壊任務に対応できる「最大速力18ノットを発揮する高速戦艦」として就役したが[54]、技術発展により仮想敵国が保有する敷島型戦艦(18ノット発揮可能)に追いつかれてしまった[55]。この艦隊装甲艦は3隻とも日露戦争に参加し、バルチック艦隊所属の2番艦オスリャービャが日本海海戦で撃沈された[56]。太平洋艦隊所属の1番艦と3番艦は黄海海戦で損傷しつつ生還したが[57]、旅順攻囲戦により沈没したのち[58]、日本海軍に捕獲された(ペレスヴェートは戦艦相模、ポペーダは戦艦周防と改称)[59]。 イギリス式巡洋戦艦の特色は、主砲こそ同世代の戦艦と同等の物を搭載したが、防御装甲を軽防御に留めた代償に、装甲巡洋艦を凌駕する高速性能を持っていたことである[

                                                            巡洋戦艦 - Wikipedia
                                                          • 久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺

                                                            | BACK to MENU | GO to BOTTOM | 注記:文中JIS第1、2水準にない漢字の表示は、京都大学人文科学研究所のe漢字プロジェクトの漢字フォントを使用した。記して謝意を表したい。なお、本稿を加筆・改稿のうえ、『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(京都大学学術出版会、2003年)に収録した。あわせて参照されたい。 久邇宮朝融王婚約破棄事件と元老西園寺 永井 和 はじめに−宮中問題と元老− 元老とはいうまでもなく、天皇自らが指名した天皇の最高顧問である。理屈の上では、元老の「至尊匡輔」の権能は天皇の大権行使のすべてにわたり、天皇の求めなり、許しがあるかぎり、いかなる問題にも答えなければならないわけだが、中でもとくに元老固有の職責として自他ともに認められていたものに、いわゆる宮中問題すなわち皇室に関わる重要案件の処理をあげることができる。具体的には、皇室の家長として天皇が勅定

                                                            • 河野元昭氏講演「燕子花図屏風の魅力をさぐる」 | 青い日記帳

                                                              根津美術館で公開中の新創記念特別展第5部「国宝燕子花図屏風」関連し開催された河野元昭氏(東京大学名誉教授、秋田県立近代美術館館長)による特別講演会「燕子花図屏風の魅力をさぐる」を拝聴して来ました。 根津美術館で「燕子花図屏風」が公開されるのは実に4年ぶりのこと。改築に入る前は、庭園のカキツバタが咲き揃う頃になると必ずこの「お宝」を披露していたもの。 今回4年ぶりに「燕子花図屏風」が新創オープンした真新しい根津美術館での展示にまさに花を添えるが如く開催された特別講演会「燕子花図屏風の魅力をさぐる」 で、講師は河野元昭先生 河野先生とくれば、はっちゃけたトークが期待できます。NHKの日曜美術館で北斎を語っていた姿はまだまだ序の口。以前、佐野市で若冲「菜蟲譜」の講演会を伺った時は楽しかったな〜 ところが、今回の講演会はいたって真面目。大真面目。流石の河野先生も根津でお話されるとなるとトーンダウン

                                                              • 私論 北一輝

                                                                - 1 - 私論 北一輝 井上 裕 目 次 Ⅰ. 「文学」に登場する北一輝 ················································· 2 Ⅱ. 「詩人」としての北一輝 ·················································· 18 Ⅲ. 「イデオローグ」としての北一輝 ·········································· 26 Ⅳ. 「魔王」ないし「呪的存在」としての北一輝 ································ 38 編集後記 ··································································· 50 「なぜ、北一輝なのか」を、まず言わなければならない。 私が北一輝に初めて出合った

                                                                • 内村鑑三 聖書の読方 来世を背景として読むべし

                                                                  聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解(わか)らない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞(ことば)は意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦(また)来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。 「心の貧しき者は福(さいわい)なり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧(ひん)は来世に於ける富(とみ)を以て報いらるべしとのことである。 哀(かなし)む者は福(さいわい)なり、其故如何? 将(ま)さに現われんとする天国に於て其人は安慰(なぐさめ)を得べければ

                                                                  • syuron

                                                                    「皇国臣民」の人間像−李光洙の「親日」活動と今日の「在日」コリアン− (平成6年度信州大学大学院人文科学研究科修士論文 上嶋隆一) −目次- はじめに           第1章 親日活動期の李光洙論をめぐる3つの立場            第1節 日本人による李光洙論 第2節 在日コリアンによる李光洙論 第3節 在韓韓国人による李光洙論 第2章 李光洙の生涯を辿る 第1節 孤児から日本留学 第2節 二・八宣言から臨時政府脱落まで 第3節 「親日」への道 第3章 「親日派」問題が今日の「在日」コリアンの在り方に問うもの 第1節 「在日」若者世代の在り様 第2節 「親日」と「在日」 第3節 「在日」を生きる はじめに 私は、1988年から1989年の韓国遊学経験のなかで、とりわけ日本と積極的に係わろうとする、あるいは係わらざるを得ない韓国人−在日韓国人や、日本人をパートナーとする職業の人々、

                                                                    • ベルギー人の明治維新評 ―昭和二年の日本にて― - 書痴の廻廊

                                                                      この時代、「デモクラティック」という単語が日本人の口癖のようになっていた。 護憲運動華やかなりし、大正末から昭和初頭にかけてのあの頃。猫も杓子もデモクラシーを熱唱し、それさえ実現したならば不況の暗雲は一掃されて、給料も上がり、うまいものがたらふく喰えて、病魔という病魔はきれいさっぱり駆逐され、平均寿命は飛躍的に上昇し、女にももて行く先々でちやほやされて、いやもう世の中はバラ色、夢色、順風満帆有頂天――そんなふうに印象されていたあの時代(・・・・)。 海外へ流出した日本人の多くがそのノリを、向こう側でも利かせまくった。 知識人と際会する機会に恵まれるたび、 「某氏の如き、あんなにデモクラティックな方で」 とか、 「この制度……こんなにもデモクラティックである」 とか妙な世辞を口にして、自分が如何にデモクラシーの敬虔な信徒であるかをアピールし、ときには頬を染めてまで陶酔を露にする有り様が、ベル

                                                                        ベルギー人の明治維新評 ―昭和二年の日本にて― - 書痴の廻廊
                                                                      • “忌避申立書に対する裁判の要求”レポ❸―5【裁判懈怠告発:青木国賠訴訟】・・控訴審:準備書面(二)・・ - 本人訴訟を検証するブログ

                                                                        *令和2年3月13日付けレポ❷-1にてレポした如く、 本件(231号)は、小倉支部の裁判懈怠を告発する訴訟であり、 被告は小倉支部長の青木 亮と国、担当裁判官は植田智彦です。 *令和2年8月9日付けレポ❷-1-1にてレポした如く、 担当裁判官:植田智彦は、記載内容虚偽の第1回口頭弁論調書を作成したので、 「口頭弁論調書記載内容への異議申立書」を提出しました。 *令和2年8月24日付けレポ❷-1-2にてレポした如く、 植田智彦は、担当を回避すべきですが回避せず、 令和2年8月24日、第2回期日を開きましたので、口頭で忌避を申し立て、退廷後、「忌避申立書」を提出しました。 *令和2年10月22日付けレポ❷-1-3にてレポした如く、 小倉支部は「忌避申立書」を却下したので、即時抗告、 福岡高裁は即時抗告を棄却したが、特別抗告は無意味不経済ですのでせず、 その後、期日呼出状がFAX送付され、 令和

                                                                          “忌避申立書に対する裁判の要求”レポ❸―5【裁判懈怠告発:青木国賠訴訟】・・控訴審:準備書面(二)・・ - 本人訴訟を検証するブログ
                                                                        • 国防の本義と其強化の提唱

                                                                          「国防の本義と其強化の提唱」 昭和九年拾月拾日 陸軍省新聞班 --- 本編は「躍進の日本と列強の重圧」の姉妹篇として、国防の本義を明かにし其強化を提唱し、以て非常時局に対する覚悟を促さんが為め配布するものである。 --- 目 次 一、国防観念の再検討 二、国防力構成の要素 其一 人的要素 其二 自然要素 其三 混合要素 三、現下の国際情勢と我が国防 四、国防国策強化の提唱 其一 国防の組織 其二 国防と国内問題 其三 国防と思想 其四 国防と武力 其五 国防と経済 五、国民の覚悟 --- 一、国防観念の再検討 たたかひと「国防」の意義、国防観念の変遷―軍事的国防観、総動員的国防観、近代的国防観―国防絶対性、相対性、国防力発動の形式―静的発動、動的発動、国防の自主 たたかひの意義 たたかひは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造

                                                                          • 海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく : 大艦巨砲主義!

                                                                            2012年02月20日22:47 カテゴリ 海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく 1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:09:44.80 ID:JNypWjEk0 ばあちゃんの家で、曾祖父が生前出していた自伝をもらってきた  俺は曾祖父とは小さい頃1、2度しか会ったことがなくて  これまでおぼろげにしか知らなかったことが、詳しく書いてあってなかなか面白かったんで  昔の資料と思って掲載画像を交えながら淡々と語っていく  ちなみに俺は軍隊のことは言うほど詳しくないので、そこは悪しからず  5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:11:23.72 ID:JNypWjEk0 さて、曾祖父は今に至るまで一族で唯一の職業軍人 親戚みんな身体が小さかったんで軍人に向かず、内心忸怩たる思い

                                                                            • 岡崎久彦

                                                                              岡崎久彦 南京入城の七言絶句 一月二十八日 神田の書肆新たに入手せる書幅録中に、松井石根大將の南京入城の詩を見出せり。 本年は南京陷落七十周年にして、南京事件の映画數多く上映豫定の折から、これを購ふ。價五萬圓也。近年住宅中に床の間消滅せしため、書軸、ことに大判の軸はほとんど捨て値なりと言ふ。 詩に曰ふ。 燦矣たり、旭旗石城(南京城の異名)にる 江南の風色、忽ち澄清 王師百萬、軍容肅たり 仰ぎ見る、皇威八紘に輝くを。 偶々王蒼海先生來訪あり。曰く、これ珍品なりと。先生歸りて早々に、『松井石根陣中日記』(南京占領時の前後)を致(おこ)し賜ふ。 その日記中、昭和十二年十二月十八日のところに松井大將、當日二詩を謹書し、陣没者靈前に手向けしとあり。一詩は、右とほぼ同じ也。おそらくはその後平仄を勘案し若干の修文を施せしものならん。 奇異の念を禁じ得ざるは第二の詩なり。曰く。 紫金陵、幽魂在りや否や 妖

                                                                              • 有田芳生の『酔醒漫録』: 木村久夫遺書全文を公開する

                                                                                木村久夫遺書全文 【遺書は田辺元『哲学通論』昭和八年版の欄外に鉛筆で書き込まれていた。カタカナ部分は平仮名で表記する。明らかに誤記と思われるものもあるが、獄にある息遣いと感情の発露によるものゆえにそのまま記録した。遺書とはそうした精神の混乱もふくめて極限にある人間の本源的発露であると判断するからである。】 (扉)死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。 (1ページ)鉛筆の傍線は私が引いたものである。 父 木村久 住所 大阪府吹田市大字佐井寺四〇二九番地 此の書に向っていると何処からともなく湧き出づる楽しさがある。明日は

                                                                                • 「#国賠訴訟における国の法令違反主張」レポート❶-1 - 本人訴訟を検証するブログ

                                                                                  本件は、最高裁の上告棄却決定の違法:違憲に対する国賠訴訟ですが、 国の“猫だまし主張”を暴くと、国は、法令違反主張をして来ました! 一 国代理人・石垣は、小倉支部平成30年(ワ)795号:国賠訴訟において、 「最高裁がした本件棄却決定(註。平成30年9月4日付け上告棄却決定)は、訴訟法上の救済方法によって是正されるべき瑕疵(再審事由)が存在しない上、 原告は、最高裁昭和57年判決が言う特別の事情に該当する事実があることについて、 何ら主張しておらず、これを認めるに足りる証拠もない。」 と主張、 本件棄却決定(上告棄却決定)に国家賠償法1条1項に言う違法が無いと主張する。 然し乍、以下の如く、 民訴法312条1項・2項を無視する不当主張であるのみならず、同法338条1項9号を曲解する不当主張であると同時に、 請求原因の読解、最高裁昭和57年判決の理解すら出来ない“お恥ずかしい不当主張”です。

                                                                                    「#国賠訴訟における国の法令違反主張」レポート❶-1 - 本人訴訟を検証するブログ