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日本海軍の検索結果41 - 46 件 / 46件

  • 発見された旧日本海軍の司令部用とみられる横穴式地下壕

    神奈川県横須賀市の海上自衛隊横須賀教育隊の敷地内に、旧日本海軍の新兵教育機関だった武山(たけやま)海兵団の司令部用とみられる横穴式地下壕(ごう)が見つかった。総延長は判明しているだけで約1・1キロ。人間魚雷「回天」の格納庫らしき横穴もある。教育隊には地下壕の記録はなく、保存に向けた詳しい調査を専門家に依頼し、将来的には戦争を伝える遺跡として一般公開も検討している=東京本社写真部 加藤学撮影 2024年8月14日公開

      発見された旧日本海軍の司令部用とみられる横穴式地下壕
    • 【戦争秘話】日本海軍司令部が戦わずして“自滅”に陥った「意外すぎる理由」とは(神立 尚紀) @gendai_biz

      太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」。近代戦争において世界的にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後76年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の四半世紀にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いを4回にわたって振り返る。 白波を敵上陸部隊の来襲と見間違えた 「昭和19(1944)年9月9日から10日にかけて、私のいたダバオ(フィリピン・ミンダナオ島)は、アメリカ海軍機動部隊の艦上機による大空襲を受けました。私は以前、空母から陸上部隊に転勤したとき、『基地は空襲で沈むことはないが、敵艦隊を攻撃することができるから有利』だと思っていたのが

        【戦争秘話】日本海軍司令部が戦わずして“自滅”に陥った「意外すぎる理由」とは(神立 尚紀) @gendai_biz
      • 日本海軍発祥之地碑(宮崎県日向市美々津) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

        宮崎県中北部の街・日向市(ひゅうがし)の美々津(みみつ)に海軍発祥之地碑が あります。 (日向市美々津にある「海軍発祥の地碑」) 宮崎県日向市美々津。日向灘に面したこの町は、かつて貿易で栄え、今も残る昔の町並みは、“重要伝統的建造物群保存地区”に指定されています。 その美々津の昔の町並みが残る地区の、その先にある海沿いに、高さ10mを超える石の塔が建っています。 結構大きいです。 波の形をしている石の塔で、宮崎市にある「皇軍発祥之地碑」や「八紘一宇の塔」と同じく日名子実三のデザインです。 塔の前面には「日本海軍発祥之地」と刻まれています。この文字は、当時の内閣総理大臣で海軍大将であった米内光政の書です。 米内光政は海軍大臣も務めます。 塔の側面には「内閣総理大臣 海軍大将 米内光政」と刻まれています。 また塔の正面には古代の船の模型が飾られています。 (なぜ美々津??) なぜ美々津が海軍発

          日本海軍発祥之地碑(宮崎県日向市美々津) - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
        • 「これが潜水艦なのか…」アメリカを驚かせた巨大「潜水空母」 旧日本海軍の発想が与えた影響とは | 乗りものニュース

          日本の降伏が国民に公表される1日前の1945年8月14日、西太平洋の環礁で米艦隊を攻撃するために潜んでいた巨大な旧日本海軍の潜水艦がありました。その後はどうなったのでしょうか。 当時の基準ではかなり大きな潜水艦 第2次世界大戦の最末期、ポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表される1日前の1945年8月14日、西太平洋のウルシー環礁(現ミクロネシア連邦)のアメリカ艦隊を攻撃するべく潜んでいた日本海軍の潜水艦がありました。 拡大画像 アメリカ軍に接収されたばかりの伊400(画像:アメリカ海軍)。 潜水艦の名前は伊号第四百型潜水艦(伊400型)。軽巡洋艦並みの大きさという当時の潜水艦としては異様に巨大な船体と、潜水艦にも関わらず“艦載機”を搭載しているという独創的な構造が特徴の艦でした。 同艦は、連合艦隊司令長官だった山本五十六大将が発案した艦ともいわれており、3機搭載している特殊攻撃機「晴

            「これが潜水艦なのか…」アメリカを驚かせた巨大「潜水空母」 旧日本海軍の発想が与えた影響とは | 乗りものニュース
          • 食い違う歴戦搭乗員2人の証言から見えてくる日本海軍「失敗の本質」(神立 尚紀) @gendai_biz

            いまから79年前の昭和17(1942)年5月7日から8日にかけて、世界史上初となる空母対空母の戦いが繰り広げられた。 連合軍の拠点、東部ニューギニアのポートモレスビーを攻略しようとした日本海軍と、それを阻止せんとする米海軍機動部隊が激突。「珊瑚海(さんごかい)海戦」と名づけられたこの戦いで、日本側は米空母「レキシントン」を撃沈したが、小型空母「祥鳳」を失い、肝心のポートモレスビー攻略作戦は断念を余儀なくされた。 筆者は、この海戦に参加した空母「翔鶴」の零戦搭乗員・佐々木原正夫二飛曹(のち少尉)と小町定三飛曹(のち飛曹長)に生前、インタビューを重ねたが、同じ空母で同じ戦いに参加した二人の回想がどうしても一致しない場面があるのが気になった。 それは、「零戦で無線が使えたか、否か」ということである。 無線機は搭載されていたが… 太平洋戦争当時、日本軍の飛行機上での無線の使い方は、連合軍に比べて遅

              食い違う歴戦搭乗員2人の証言から見えてくる日本海軍「失敗の本質」(神立 尚紀) @gendai_biz
            • なぜ若者たちは特攻隊入りを“熱望”したのか…「いずれ死ぬ身なのだから」日本海軍が“非合理”な自爆攻撃を決行してしまったワケ | 文春オンライン

              「合理的作戦」の破綻のあと レイテ沖海戦で敗北した日本海軍は、残存艦艇の修理、整備に入った。しかし、再び水上艦艇による決戦が行われるとは考えられない状況であった。大きな修理を必要とする艦艇は最小限の修理のみを施して、残るすべての力は特攻兵器の生産に充てられることになった。 やや話はさかのぼるが、マリアナの攻防で艦隊を失った海軍は、ことの重大さに苦悩していた。もはや日米の戦力の差は決定的なものであり、通常の攻撃では、日本側に勝ち目はなくなっていたのである。米軍のレーダーは安定した性能で日本機の接近を探知し、十分な余裕を持って邀撃戦闘機を差し向けている。また、幸運にも邀撃戦闘機群の網を逃れ、米艦隊に突入できた飛行機も、小型レーダーを内蔵し、飛行機に接近しただけで炸裂するVT信管を装備した高角砲弾の弾幕に包まれて撃墜されてしまう。 当時、日本海軍では、この米艦隊の対空砲火の命中率が異常に高いこと

                なぜ若者たちは特攻隊入りを“熱望”したのか…「いずれ死ぬ身なのだから」日本海軍が“非合理”な自爆攻撃を決行してしまったワケ | 文春オンライン