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今日は敗戦の日(昭和天皇裕仁が、連合国に無条件降伏することを自らラジオ放送で表明した日)だが、その内容の現代語訳をハフィントンポストが紹介してくれている。 これを見ると、そのいわゆる「玉音放送」においても、裕仁の発言は嘘だらけだったことがよくわかる。 www.huffingtonpost.jp 私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。 私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。 そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の
8月17日に放映されたNHKスペシャル『昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~』。戦後初代の宮内庁長官となった田島道治が天皇裕仁の言動を5年近くにわたって詳細に記録した文書が新たに発見(遺族により公開)され、その内容を紹介した番組だ。 全体としては、裕仁が戦争を深く反省していたとか、軍閥の「下剋上」に逆らえずやむを得ず開戦したとか、戦後になって作られた天皇免責のためのフェイクストーリーをなぞった内容に過ぎなかったが、一部注目すべき部分もあった。 「事志と違ひ」は責任転嫁の言葉 ひとつはサンフランシスコ講和条約発効(1953/5/3)を祝う式典での「おことば」を巡ってのやりとりだ。 この「おことば」の草案には、今まで知られていなかった次のような一節が含まれていた。 事志と違ひ 兵を列国と交えて敗れ 人命を失い 国土を縮め 遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは 遺憾の極
5月3日が憲法記念日、73年前のこの日に日本国憲法が施行されたことは、おそらく多くの日本人が知っているでしょう。ではその前日に、憲法施行とかかわって行われた重大な出来事はどのくらい知られているでしょうか。 1947年5月2日、「外国人登録令」が天皇の勅令(勅令二〇七)として発布・施行されました。翌日の憲法施行で「象徴」となり、一切の政治権能がなくなる(はずだった)天皇裕仁が、最後の勅令として、駆け込み的に制定した法令です。 「外国人登録令」が目的としたものは何だったか。「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」(第11条)ことでした。 植民地支配していた間は「皇民化政策」で強権的に「日本人」にしておきながら、戦争に負けたとたんに「外国人とみなす」として切り捨て、戦後の補償から排除したのです。 その切り捨ては「当分の間」どころか、1952年4月28日の
Posted November. 23, 2020 09:28, Updated November. 23, 2020 09:28 「本法廷は天皇裕仁に有罪を判決する」 2000年12月12日、日本東京で開かれた日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷で裁判長を務めたガブリエラ・マクドナルド旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷所長が判決文を読み上げると、傍聴席から歓声と涙が出てきた。女性国際法廷は、2000年12月8日、日本軍「慰安婦」被害者70人余りが参加した中で韓国、中国、台湾など8カ国の被害国の検事団40人余りが、昭和元天皇など25人を起訴した民間法廷だ。 それから20年後の今月20日、韓国女性人権振興院傘下の日本軍「慰安婦」問題研究所(所長=キム・ソラ)は、女性国際法廷20周年を迎えて、「2000年の女性法廷と超国籍連帯」をテーマに学術行事を開いた。当時、法廷の実行委員だったシン・ヘス国連人権政策セン
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