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野村克也の検索結果1 - 5 件 / 5件

  • プロ野球 野村克也さん死去 84歳 戦後初の三冠王 | NHKニュース

    プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名キャッチャーで、監督としても日本一に3回輝いた野村克也さんが11日、虚血性心不全のため亡くなりました。84歳でした。 野村さんは京都府出身、昭和29年に峰山高校からテスト生でソフトバンクの前身、南海に入団しました。昭和36年から8年連続でホームラン王を獲得し、昭和40年には戦後初の三冠王に輝きました。 「打ってよし守ってよし」の球史に残る名キャッチャーとなり、選手兼任監督としても8年間チームを率いて昭和48年にはリーグ優勝を果たしました。 その後、ロッテと西武でプレーし、昭和55年に45歳で現役を引退しました。 通算3017試合出場は、平成27年に中日で選手兼任監督だった谷繁元信さんが更新するまで長年にわたってプロ野球記録でした。 また通算2901安打、ホームラン657本、1988打点はいずれも歴代2位で、平成元年に野球殿堂入りしています。 翌年の平成2年

      プロ野球 野村克也さん死去 84歳 戦後初の三冠王 | NHKニュース
    • どうして野村克也の現役時代を語る人が少ないのか?(豊浦彰太郎) - エキスパート - Yahoo!ニュース

      逝去した野村克也は名選手であり、名監督であり、名解説者だった。しかし、選手としての部分はあまり話題にならなかった。その全盛期は遠い昔になってしまったこと以外にも理由がありそうだ。野村克也が死んだ。突然の訃報に驚いたが、愛妻サッチーさんが逝ってから急激に老いたので、ある意味では来るべき日が来たか、という感もある。 野球人としての彼には語るべき部分がたくさんある。戦後初の三冠王獲得や史上2位の出場試合数(3017)、安打数(2901)、本塁打(657)、打点(1988)を誇る選手としての栄光、現役兼任、3度の日本一などの監督としてのキャリア、そして「ノムラスコープ」で知られた解説者としての部分だ。 彼のプロ野球人生はなにせ昭和29年に始まっているし、死の寸前まで野球人であったと思う。だから彼を追悼するに当たっては色々な切り口が可能だ。みんなそれぞれが、自分が生きてきた時代での野村克也がある。

        どうして野村克也の現役時代を語る人が少ないのか?(豊浦彰太郎) - エキスパート - Yahoo!ニュース
      • 野村克也さんが死去 ヤクルト監督時代に日本一3回(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

        元ヤクルト監督で野球評論家の野村克也さんが死去したことが11日、わかった。84歳だった。警視庁によると、この日未明に都内の自宅から病院に搬送され、その後死亡が確認された。 【写真】沙知代さんにキスをする野村克也さん ◆野村 克也(のむら・かつや)1935年6月29日、京都府網野町(現・京丹後市)生まれ。54年、峰山高からテスト生で南海に捕手として入団。65年、戦後初の3冠王を獲得。70~77年まで選手兼監督を務め、ロッテ、西武を経て引退。解説者を務めた後、ヤクルト、阪神、社会人野球のシダックス、楽天監督を歴任。優勝5回、日本一3回。通算657本塁打、1988打点は、いずれも王貞治氏に次いで歴代2位。

          野村克也さんが死去 ヤクルト監督時代に日本一3回(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
        • ゲーム媒体でプロ野球界のレジェンド・野村克也さんのインタビューという謎企画が実現した不思議な思い出と、コンテンツ再編集の可能性|森ユースケ(フリーライター)

          ゲーム媒体でプロ野球界のレジェンド・野村克也さんのインタビューという謎企画が実現した不思議な思い出と、コンテンツ再編集の可能性 スマホのプッシュ通知を見て、自分の口から、聞いたことない種類の声が聞こえた。 野村克也さん死去。 …。 涙は出ない。 体の芯の部分から、手先に向けて、なにかカッと熱を帯びる感覚を覚えながら、真っ先に思い出したのは、昨年末にNHKで放送されたドキュメンタリーでおこなわれた、ノムさん×橋田壽賀子さんの対談。 NHKスペシャル「令和家族 幸せ探す人たち」 https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586212/index.html これを見たときは、ノムさん、相当参ってるんだな〜という印象と同時に、ビビるくらいしゃべらなかったので、スタッフはそうとうピリピリしただろうな、という感想を抱いた。 ●ライター人生で最も反響があった記

            ゲーム媒体でプロ野球界のレジェンド・野村克也さんのインタビューという謎企画が実現した不思議な思い出と、コンテンツ再編集の可能性|森ユースケ(フリーライター)
          • 追悼 故・野村克也氏が最後に語った「再生」と「自信」:日経ビジネス電子版

            野村 克也[のむら・かつや]氏 1935年京都府生まれ。京都府立峰山高校卒業。1954年、テスト生として南海ホークスに入団。3年目にレギュラーに定着すると、それ以降、球界を代表する捕手として活躍した。監督としては、南海ホークス時代の1970年に選手兼任監督に就任したのを皮切りに、ヤクルトスワローズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任した。ヤクルト時代に4度のリーグ優勝と3度の日本一に輝く。球界を代表する捕手にして監督。 「野村再生工場」の異名を取ったように、野村さんは戦力外になった選手を再生することが得意でした。 「再生工場」という言葉は、南海(現ソフトバンク)時代に巨人の2軍だった山内(新一氏)や松原(明夫氏)、東映(現日本ハム)の若手だった江本(孟紀氏)をトレードで獲得して、ローテーション投手にしたことから始まったんです。コツと言われるとただ使うだけで何もないけど

              追悼 故・野村克也氏が最後に語った「再生」と「自信」:日経ビジネス電子版
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