AVは誰にでもできる仕事ではない 「無理ですよ。絶対嫌ですって言ったんですけど、全然通じなくて。むしろ『いや、何泣いてんの』っていう感じでした。 その事務所自体、お姉ちゃんが紹介してくれたので、最初はお姉ちゃんにも相談できなくて。一人で悩んでいました。 ただ、AVならお金が稼げると聞いて、実家の経済状況や、海外留学のことを考えると、心が揺れ動いたんですよね。グラビアやりながらこつこつ働いても、いつ留学費用が貯まるかわからないような状況だったし」
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麻美 お腹の痛みは全然なかったんですけど、ずっとくだしていて、お腹が張っているような感じがありました。それに、何となくお腹も膨れていて。自分では、胃腸炎か何かだろうと思って、胃腸薬を飲んでいたんですけど、全然治らなかったんです。周りの勧めもあって、1月末に病院に行ったのがはじめですね。 ――はじめは何科にいかれたのでしょうか? 麻美 総合診療科に行って、そこから婦人科を紹介されると、「超音波検査しましょう」「CT撮りましょう」って、次々に検査が続いたんです。私は大事じゃないだろうって思っていたから、「なんでこんなに検査ばっかりするの? 忙しいし、早く帰して 」って感じだったんですけど。 ただ、その日の検査が終わると、先生がすごく深刻そうな顔をしてこっちを見て。 「最近、周りから痩せたって言われませんか?」って聞かれて、初めてオヤオヤ……ってなって。「ちょっと進行しているものがある」と、言わ
麻美 私が大人になって母から聞いた話ですが、当時は週刊誌の方がよく取材にきていたみたいですね。お店も繫盛していたらしく、4店舗くらい出したのかな。子どもの頃は、自宅兼店舗に住んでいましたが、夜になると1階のお店から笑い声とか、カラオケの歌声がよく聞こえてきましたね。 ――麻美さんもお店に顔をだすことはあったのですか? 麻美 親に用があるついでに、お客さんと喋ることもありましたね。お客さんと一緒に歌を歌うと、みんなが喜んでくれたんですよ。今は全てお店を閉じていますが、いつも賑やかで楽しかった記憶があります。 今思えば、子どもながらに比較的裕福な生活をさせてもらっていたと思います。携帯電話も今ほど普及していなかったんですが、小学生のときに持っていましたし。 ただ、バブルがはじけて、私が小学校高学年くらいのときから徐々に閉じていったのかな。気づいたら、お店のドアが板でふさがっていたので、え、なん
「志村さんと一緒に仕事をする現場では、『志村さん、今日はあそこのアドリブ違ったね、あの場面の表情が違うね』と、共演者同士が盛り上がっていました。現場のみんなが、志村さんのファンになるんです。もちろん、私もそのひとりでした」 新型コロナウイルスによる肺炎で逝去したコメディアン・志村けん(享年70)。4月1日には追悼番組「志村けんさん追悼特別番組 46年間笑いをありがとう」(フジテレビ系)が放送され、ドリフターズのメンバーや研ナオコといった縁のある共演者らが彼を偲んだ。 コントに舞台にと、共演者と笑いを作り込んだ志村。元セクシー女優でタレントとしても活躍する麻美ゆま(33)も、舞台「志村魂」や「志村けんのバカ殿様」(フジテレビ系)で共演したメンバーのひとりだ。麻美は、最初に志村と会ったときにかけられた質問が印象に残っているという。 初対面で「ゆまさんは、お酒の方はどうですか?」 「最初にお会い
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