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ブックマーク / battle-of-okinawa.hatenablog.com (5)

  • 米海兵隊キャンプ・ハンセンで 「護郷隊」の陣地跡「発見」 ~ 頻繁に自衛隊と合同演習しても、遺跡・遺構調査はかたくなに拒み続ける75年目の占領軍 - Battle of Okinawa

    土のメディアが伝えない在沖米軍のすがた 考古学調査や戦跡・遺骨収集の調査をかたくなに渋る在日米軍 恩納岳 - 護郷隊の陣地「発見」 沖縄戦 「護郷隊」の陣地跡見つかる 少年らで編成の極秘部隊 土のメディアが伝えない在沖米軍のすがた 考古学調査や戦跡・遺骨収集の調査をかたくなに渋る在日米軍 沖縄戦から75年以上もたつというのに、なぜ米軍は沖縄中の土地を占領したまま、地元の発掘調査や戦跡調査、遺骨収集すら拒み続けるのだろうか。 自国の兵士の遺骨収集は沖縄戦当時から徹底して行っているアメリカは、沖縄の土地と遺構を占領し、日の税金を使って、いったい何をしているのか。その土地と住民への最低限の礼も敬意も守れぬものが、一体何を「守る」というのだろうか。 米海兵隊基地キャンプ・ハンセンのなかに、日軍によって召集された10代の沖縄の子どもをつかった秘密部隊「護郷隊」の陣地や病院跡や遺骨が埋もれたま

    米海兵隊キャンプ・ハンセンで 「護郷隊」の陣地跡「発見」 ~ 頻繁に自衛隊と合同演習しても、遺跡・遺構調査はかたくなに拒み続ける75年目の占領軍 - Battle of Okinawa
  • 米軍にバカ爆弾とよばれた人間ロケット弾について ~ 米軍の記録写真から見る「桜花」 - Battle of Okinawa

    「ギズモ」とよばれた仕掛け 4月1日、読谷・嘉手納で米軍が「桜花」を接収 バカ爆弾の仕組み 1945年3月21日、第1回神雷桜花特攻隊、戦果なし。 1945年4月1日、第2回神雷桜花特攻隊。戦果なし アメリカ公文書館の写真から 兵器研究のために国に送られた。 日の降伏後にも大量の大型バカを発見 桜花作戦の「戦果」 宗教者も一体となって若者を送りだした 「ギズモ」とよばれた仕掛け かつて、若者に死を強制し、大人がそれを賞賛し強制する国があった。 そしてその国ではいまだに、特攻や玉砕が美しいという大人たちがいる。美しい死、という神話と、それを政治装置として利用する政治家と、その神殿としての靖国神社や護国神社。ー 特攻の構造とは何だったのか。 その国の国民が、万が一にでも、いまだに特攻の構造から目をそらし、特攻や玉砕を美しいとする言説に惑わされているとしたら、その狂気の深淵を、歴史学から宗教

    米軍にバカ爆弾とよばれた人間ロケット弾について ~ 米軍の記録写真から見る「桜花」 - Battle of Okinawa
    quick_past
    quick_past 2020/03/13
    日本の非論理的な体質は、求める最良の結果よりも精神世界の実現を優先する
  • 普天間飛行場に奪われた生まれ里 - Battle of Okinawa

    すごいだろう、おじさんはな、これで基地の中にはいれるんだぞ、と子どもの目の前で一枚の紙切れをひらひらと自慢してる叔父がいたが、 歴史を知らなければ、仕事や基地フェスで基地に入ったというだけで何か特別なポジションにいるかのような錯覚におちいる。米軍基地に入れてもらえて、ありがたい、と勘違いする。 線から外に追いやられた人間が、紙切れ一枚をもらったからといって、一体何をありがたがっているのだろうか。 滑稽であると同時に 情けなく恥ずかしいことだ。 ちゃんと知っておくべき事は、知っておこう。 松並木も学校も…今は普天間飛行場の中 生還して帰った古里は住むこと許されず <奪われた日・再生への願い―戦後75年県民の足跡①玉那覇昇さん㊤ 琉球新報 2020年1月3日 13:53 米軍普天間飛行場内にあるかつて暮らしていた実家の場所を示す玉那覇昇さん=2019年12月18日、宜野湾市宜野湾 米軍機の調整

    普天間飛行場に奪われた生まれ里 - Battle of Okinawa
    quick_past
    quick_past 2020/01/04
    ダム工事でも土地を奪われた人たちが本州にいるし、その人達の声もあったはずなんだけど、いつしか慣れきって他人事と切断するようになってしまった。宜野湾の今は、本州でそうして暮らしてる有権者の責任でもある・
  • 沖縄戦から74年、今まで「不明」とされていた「開南中学校学徒隊」の資料が国立公文書館から「発見」される - Battle of Okinawa

    学徒動員者数および戦死者数が「不明」のままの私立開南中学 2018年の記事、「不明」のままの数字、同窓生の悲願の願い 資料は 2017年まで厚生省が保有、その後、国立公文書館に移管 学徒動員者数および戦死者数が「不明」のままの私立開南中学 これは、素晴らしい歴史上の発見の知らせであるとと同時に、暗く理不尽な沖縄戦資料の「発見」の物語である。 学徒兵として戦場に送られた旧制中学の子どもたち。 地獄の戦場のど真ん中に戦力として送り込まれ、 無残に命を奪われたものたちの中には、わずか13歳の子もいた。 公式には「不明」のままにされた開南中学学徒兵の墓前に、この資料の存在をもっと早く届けてあげれたら、どんなによかったことだろう。 あの沖縄戦で失われた中学の一つに、私立開南中学校がある。開校したのは、志喜屋孝信。彼は、戦後アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事、そして琉球大学の

    沖縄戦から74年、今まで「不明」とされていた「開南中学校学徒隊」の資料が国立公文書館から「発見」される - Battle of Okinawa
  • 一枚の写真が物語ること「うつろな目の少女」 ~ 日本兵から殴る蹴るの暴行をうけ右目を失明した当時12歳だった男性が訴える、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」 - Battle of Okinawa

    AIによるカラー処理》A young Okinawan girl waits to receive medical treatment. The military government's doctors are treating a number of such cases at Gushikhan.【訳】傷の手当を待つ少女。具志頭では軍医によるこのような治療が多く行われた。(1945年 6月21日撮影) 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館 1945年6月21日、具志頭での一枚の写真 1945年6月21日。 米軍は一枚の写真を記録している。 青ざめ、呆然として診療所で傷の手当てを待つ1人の少女、後に「うつろな目の少女」として知られるようになった写真である。 大城盛俊さんの証言 - 黒砂糖をよこせと暴行を受けた そしてこれも後に証言されたことによると、この少女は、実は少年であり、ま

    一枚の写真が物語ること「うつろな目の少女」 ~ 日本兵から殴る蹴るの暴行をうけ右目を失明した当時12歳だった男性が訴える、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」 - Battle of Okinawa
    quick_past
    quick_past 2019/10/04
    最低の発言->https://snjpn.net/?p=160234 "日本軍はそれ以上の戦死者を出している。日本人は名誉のためにも死ぬ。"
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