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ブックマーク / kyoudan.hatenablog.jp (11)

  • 『攝津名所圖會大成』卷之六「關帝堂」翻刻 - 尚書省 三國志部

    四天王寺の東側、大阪市天王寺区勝山の住宅地に大阪 関帝廟こと、黄檗宗白駒山 清寿院(通称:南京寺)が鎮座する。関帝廟ということで、尊は例にもれず関帝像である。その左右は関平と周倉が侍る。 清寿院の関帝像は古く、おそらく清寿院が浄土宗から黄檗宗に改宗し、中興開山した明和元年(1764)以降のタイミングで将来し、祀られたものだと思われる。清寿院の歴史を調べる上で縁起は必読である。 暁鐘成 著,松川半山・浦川公佐 画『攝津名所圖會大成』卷之六に清寿院の縁起は記録される。今回はそれに記される該当箇所(清寿院に関するもの)を以下に翻刻していきたい。 關帝堂 右同所の北淸壽院ニあり當寺開山大成和尚唐土より將來の靈像なりとぞ 且什寶に聖德太子御自作の十一面観觀世音あり長凡六寸五分許 尊 關聖帝君 長凡二尺餘唐作一木を以て彫刻する所なりト云 例年五月十三日祭祀執行伶倫奉納の音樂あり 額 頂下有赫大成筆

    『攝津名所圖會大成』卷之六「關帝堂」翻刻 - 尚書省 三國志部
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    quick_past 2019/12/29
    “大阪 関帝廟こと、黄檗宗白駒山 清寿院”四天王寺のすぐとなり
  • 『三国志』中の改名した人物 - 尚書省 三國志部

    三国志には多くの人物が登場する。その中でもごく僅かであるが改名をしている人物がいる。理由は逃亡するためであったり、養子になるためであったりと様々である。 さて今回は正史より「改名した」という記述がある人物を五十音順で以下に列挙する。 ※避諱は除く。 改名後 改名前 改名理由 出典 王 平 子均 何 平 子均 母方の家の何氏に養われていたが、後に王姓に戻ったため。*1 卷四十三 蜀書十三 黃李呂馬王張傳第十三 王平傅 賈 逵 梁道 賈 衢 梁道 理由不詳。早い段階で改名したと考えられる。 賀 斉 公苗 慶 斉 公苗 伯父の慶純が朝廷に召し出された際に安帝の父・考徳皇の諱を避けるため。*2 關 羽 雲長 關 羽 長生 理由未詳*3 卷三十六 蜀書六 關張馬黃趙傳第六 關羽傅 簡 雍 憲和 耿 雍 憲和 幽州では耿を簡と発音したため。*4 卷三十八 蜀書八 許糜孫簡伊秦傳第八 簡雍傅 郤 正 令

    『三国志』中の改名した人物 - 尚書省 三國志部
  • 正史における馬岱について - 尚書省 三國志部

    先日より調べている馬岱について、どのような役割が与えられ、それが変化しているのかを検証するため、まずは正史の記述を以下にピックアップする。 (章武)二年卒,時年四十七。臨沒上疏曰「臣門宗二百餘口,為孟紱所誅略盡,惟有從弟岱,當為微宗血之繼,深託陛下,餘無復言。」追謚超曰威侯,子承嗣。岱位至平北將軍,進爵陳倉侯。超女配安平王理。 【『三國志』卷三十六 蜀書六 馬超伝】 章武二年(222年)に馬超が47歳で死去する。臨終の際に「一族の200人余りが曹操によって誅殺されたが、従弟の馬岱だけが生き残っている。馬氏の血を継ぐ者として陛下に託す。」と上疏した。馬超に威侯と追諡され、子の馬承が嗣いだ。馬岱の位は平北将軍に至り、陳倉侯に進爵した。 延士衆知曲在延,莫為用命,軍皆散。延獨與其子數人逃亡,奔漢中。儀遣馬岱追斬之,致首於儀,儀起自踏之,曰:「庸奴!復能作惡不?」遂夷延三族。 【『三國志』卷四

    正史における馬岱について - 尚書省 三國志部
  • 横山光輝『三国志』と生賴範義 - 尚書省 三國志部

    様々な視点より現在進行形で横山光輝作品に関する研究が現在進行形で行われている。我々にとって馴染み深い作品といえば横山光輝『三国志』である。 その研究の1つに清岡美津夫「横山光輝はなぜ官渡の戦いを描かなかったのかをめぐって」(『三國志研究』10号,2015)がある。この研究によって物語冒頭は吉川英治『三国志』を底に、また途中より『三国演義連環画』(上海人民美術社,1956〜1964)を参照に描かれたことが明らかとなった。 さて題へ。 1971年12月に発売された『希望の友』1972年1月号(潮出版社)より横山『三国志』の連載が開始された。1971年11月に発売された同誌12月号に以下の告知が掲載された。 日中国交正常化する以前の資料がない時に描かれたため、劉備の冠や張飛の頭の装飾品など三国時代に存在しないモノが描かれてしまっている。 ・「生褚範義展 THE ILLUSTRATOR スター

    横山光輝『三国志』と生賴範義 - 尚書省 三國志部
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    quick_past 2019/08/10
    横山光輝は何を参考に三国志を書いていたのか。
  • 豫劇における馬岱 - 尚書省 三國志部

    今回も百度で興味深い記述を見つけたので、それについて触れたい。 大平調與豫劇《收馬岱》(即《對金抓》),写黃三耀獨闖飛虎山,為女大王所擒結為夫,之後就是“兄弟相認”一折了。写黃三耀千里尋兄,與胞兄馬超相認的故事。他們多年未見面,姓氏又不一様,他們是怎様相認的?戲中說他們有一件馬家祖傳暗器“金抓”,使得兩軍陣上黃三耀、馬超以祖傳“金抓”相對時,黃方知馬就是自己胞兄(《三國演義》說他們是堂兄弟),在諸葛亮敦促下兄弟相認,黃三耀改名馬岱,兄弟同保蜀漢。 河南地方の劇『収馬岱』。物語の流れは黄三耀が兄を探しているところ飛虎山に踏み入り、そこでその山の女王を捕らえ夫婦となる。そして引き続き兄を探し再会を果たす、といった感じである。 内容は、黄三耀は兄と長年会っていないため、彼らはお互いの名前を知らない。しかし彼の家には先祖代々に伝わる暗器「金抓」がある。ある時、黄三耀が馬超と対峙した際に、馬超もま

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  • 白馬将軍龐統 - 尚書省 三國志部

    以前に三国志や演義等に登場する馬をリストアップしてTogetterにてまとめた「三国志の馬一覧」。主に中国のサイトに掲載されているネタをただ単にまとめたため、ソースの確認や精査は行わなかった。作成以降全く更新もしてこなかったため、それらの出典や他にネタが増えていないかを確かめるために先日よりちまちまと作業を行っていた。 今回はその一環で見つけたネタを紹介する。 ・三国志の馬一覧 - Togetterまとめ https://togetter.com/li/666018 『四庫全書』子部に引かれる宋代の葉廷珪が編纂した『海録碎事』卷十三下の白馬将軍の項に以下の記述がある。 白馬将軍 白馬将軍祠在梓潼縣。舊經云龐統字士元、自號白馬将軍。 「白馬将軍の祠が四川省の梓潼郡にある。旧経(詳細未明)が言うには龐統士元は自ら白馬将軍と号した」という内容である。三国志で白馬といえば、劉備の的盧や白馬の戦い、

    白馬将軍龐統 - 尚書省 三國志部
  • 張特と張持と張時 - 尚書省 三國志部

    以下の続き ・涿郡張氏 - 尚書省 三國志部 http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20171124/1510535268 張特については既に記したので今回は割愛する。 まずは張持について。 (赤烏)二年春三月,遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡之遼東,擊魏守將張持、高慮等,虜得男女。 【『三國志』吳書二 吳主傳】 赤烏二年(239)三月に孫権は遼東に羊衜と鄭冑、そして孫怡を遣わせて張持と高慮等を撃ち破りそこの男女を捕虜にした。この件以外での記述は残されていないため、彼の来歴等の詳細は不明である。 次に張時について。 『魏略』曰:畿少有大志。在荊州數歲,繼母亡後,以三輔開通,負其母喪北歸。道為賊所劫略,衆人奔走,畿獨不去。賊射之,畿請賊曰:「卿欲得財耳,今我無物,用射我何為邪?」賊乃止。畿到鄉里,京兆尹張時,河東人也,與畿有舊,署為功曹。嘗嫌其闊達,不助留意於諸事,言此家疏誕

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    quick_past 2019/08/10
    まぎらわしい名前の三人
  • 足利尊氏の霊夢 - 尚書省 三國志部

    今回は三国志研究会(全国版)にて、ぼるどさん(@Bolxfoy)よりご指摘をいただいたことを以下に記したい。お話しを伺うと確かにそうだ、と腑に落ちる点があったためおそらくそうであろうと考える。 「足利尊氏が関帝像を祀った」という伝承の情報源としてよく挙げられる資料『山城名勝志』宝永二年(1705)。先行研究では以下に引用する記述を、当然の事であるがそのまま論文等に掲載されている。 なお濁点と句読点は適宜補い、変体仮名はひらがなで表記する。 尊氏ある夜の夢に女来告て云、今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求て信仰すべし、と。霊夢のごとく元朝に求るに、関羽将軍の像を送らるる。尊氏此寺の傍に安置し給ふ。 『山城名勝志』巻十三下 愛宕郡 おそらく上の資料を基にして記されたと思われる天明七年(1787)成立の秋里籬島,竹原春朝斎 画『拾遺都名所図会』では次のように記される。 将軍尊氏公ある夜の

    足利尊氏の霊夢 - 尚書省 三國志部
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    quick_past 2019/08/10
    “すっかり先行研究に騙されてしまっていたじゃないか 原点を当たるのは本当に大切である”
  • 埼玉県山西省友好記念館(神怡館)廃止へ(2018年3月31日) - 尚書省 三國志部

    備忘録として。 中国文化歴史等に触れることができる日で数少ない専門施設の1つ埼玉県山西省友好記念館 神怡館(埼玉県秩父郡小鹿野町)。ネットショップ「英傑群像」のグッズが販売されていたり、その繋がりで三国志祭にブース出展されたり、関羽像等の三国志関連の展示物が並んでいたりと、三国志ファンにとどまらず、コスプレイヤー界隈でも知名度が高い施設である。個人的には関帝像があり、かつ華光が菩薩ではなく「大帝」として置かれていることに興味とついつい魅力を感じてしまう。 1992年5月に埼玉県と山西省の友好締結10周年を記念し開館した。開館して25年の節目を迎えたが、残念ながら2018年3月末(2017年度末)に「廃止」されるようである。廃止ということで完全に閉館するかは現段階では未明である。 さて、今回は2017年12月27日(火)までに出た情報を以下に整理したい。リンクばかりでかなり見にくくなっ

    埼玉県山西省友好記念館(神怡館)廃止へ(2018年3月31日) - 尚書省 三國志部
  • 馬岱の字を考える2 - 尚書省 三國志部

    思い付きです。 三年前に作成した上の記事において若干触れたが、馬岱の字が「伯瞻」とする説があり、その出典が『陜西省扶風縣郷土志』に見える、ということは一部の三国志ファンの間では知られている。陳寿『三國志』や『三国志平話』、そして『三国志演義』各版において、馬岱の字はいずれも記されていない。 しかしながら19世紀になり、長年不明であった馬岱の字が突如判明する。しかも諡も何故か明らかになっているのである。今回は字のみに焦点を当てる。 まずは嘉慶二十三年(1818)に刊行された『扶風県志』に見える馬岱の記述を見たい。 馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒蒲阪、曹曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、拜左將軍。卒諡威侯。 嘉慶二十三年(1818)刊『扶風県志』巻十一「人物」 馬岱については馬超の項に「馬超が従弟の馬岱とともに劉備に帰順した」と記される。 時代が少し下り

    馬岱の字を考える2 - 尚書省 三國志部
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    quick_past 2019/08/10
    後の世の同名の別人が混同されていた。という説
  • ちくま『三国志』誤訳について - 尚書省 三國志部

    王必について調べていると、『三國志』魏書 武帝紀(建安二十三年条)に引く『三輔決錄』注において誤訳を見付けてしまったので、備忘録として記事に。 三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。後十餘日,

    ちくま『三国志』誤訳について - 尚書省 三國志部
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    quick_past 2019/08/07
    “ちくま『三国志』は概要や出来事などの流れを把握するため等、利便性の高いツールではあるが、たまにとんでもない誤訳や誤った解釈での意訳がされている場合がある”
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