選挙対策と国会運営のコツを体得した小沢の時代がいよいよ到来する。心身ともに充実した40代の小沢は、「剛腕」幹事長として自民党のど真ん中に君臨していく。 【写真】1996年3月、新進党党首時代の小沢一郎 1984年12月、竹下登をトップとする「創政会」(後に経世会)の旗揚げに向けた動きが加速していた。田中派内で、いつまでたっても“家督”を譲ろうとしない闇将軍・田中角栄に対し、中堅・若手の不満が鬱積していたのだ。創政会中核メンバーである小沢、梶山静六、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三らは会合を重ね、85年1月下旬には、田中派約120人のうち、約80人が創政会に参加する段取りをつけた。 しかし、創政会の実態に田中が気づくと、事態は一変する。田中は「竹下のクーデター」とみて徹底した切り崩しを行い、約半数が85年2月7日の初会合への出席を見送った。出席者は40人だった。 (前回はこちら) 議員在職50年
国民民主党の小沢一郎(77)が衆院在職50年を迎えた。尾崎行雄、三木武夫、原健三郎、中曽根康弘、桜内義雄(衆参通算で51年半)に次いで憲政史上6人目となる。小沢は1969(昭和44)年12月27日の衆院選で初当選し、現在まで17回連続当選を誇る。小沢はいまも野党随一の実力者であり、その〝現役感〟は半端ではない。 「政治家と酒」、田中角栄は宴席でほとんど飲まなかった。1972年8月19日、軽井沢の万平ホテルでキッシンジャー米国大統領補佐官と会談する田中角栄首相 一方でそのキャリアは極めて特徴的だ。一貫して党のポストに就いてきたため、党首経験は通算17年8カ月に及ぶものの、意外にも閣僚経験は自治相の1回だけ、その期間もわずか7カ月余である。官房副長官として首相官邸を経験しているが、これも1年半に過ぎない。 にもかからず、首相を凌駕する絶大な権力を握り続け、自民党を2度にわたって下野させた。昭和
「ひとと会うのがつらい」「大勢が集まる場所で動悸がする」「外に出るのが怖い」など……ひとに話しにくい症状に苦しんでいる方々に、エールをお送りしたい。そんな思いから、この対談は実現しました。過去にパニック障害を克服した経験がある西内まりやさんに、精神科医の安田雄一郎先生を交えて心の悲鳴に耳を傾けることの大切さについて語っていただきました。 ―パニック障害とは、医学的にどのような状態? 安田先生: 突然起こる動悸、めまい、不安感、胸の圧迫感、そういった症状をパニック発作と呼びます。緊張する場面とか、大勢の人がいる場所などで起こることが多いのですが、パニック発作が長期にわたって頻繁に起こって困るとなると、パニック障害と診断されます。 西内さん: パニック発作が連続するとパニック障害に…… 安田先生: 緊張する必要がないときでも電車の中や楽しむために出かけたライブ会場などでパニック発作が起きるなど
「セカンドキャリアどころかフィフティーンキャリアですよ」 そう豪快に笑うのは、坂本一生。'93年、“新加勢大周”の名でデビューし、その後、坂本一生に改名。肉体派タレントとして活躍するも、浮き沈みの激しい芸能界の荒波に飲まれ、ホスト、探偵、便利屋などの仕事を転々とした。その数、なんと15回! ある意味、芸能人キャリア論の生き字引的存在と言えるかもしれない。 【この記事のすべての写真を見る】 「芸能にしがみついていると正社員にはなれません。融通のきくバイトをするしかないんです」と、のっけから「なるほど」とうなってしまうほど言葉に力があるから、さすがすぎる。 「いろいろな仕事をしましたが、印象に残っているのは鳶職人かな。 国家資格である、足場の組み立てなど作業主任者も取得したんだけど、雨の日に足場から転落してあごを骨折……1か月間、流動食しか食べれなかったなぁ。あと、陸送の仕事をしていたときは、
昨年大みそかに放送された『第70回NHK紅白歌合戦』では、紅組トリを飾ったMISIAの歌唱力が話題を集めた。 【写真】2018年4月に行われたライブの模様、華麗に舞うMISIA 本番では「アイノカタチ」「INTO THE LIGHT」そして「Everything」を歌い上げた。歌唱後、ネットでは「声量が凄い」「歌唱力がえぐい」「圧巻だった」「感動した」という声が溢れた。 記者もリハーサルでその歌唱力に驚いた。紅白は、ホールでリハーサル取材をし、ロビーで囲み取材などを行う。出場歌手のなかには演出の都合でリハーサルそのものを取材陣に公開することを禁止していることもある。そのため、記者はホールに居続けることが出来ず、ロビーで待機する。MISIAの場合もリハーサル取材は禁止だった。 ホールからぞくぞくと退出する記者たち。程なくして演奏が始まり、歌声が響き出した。ロビーに居ても十分に聴こえてくるその
米中貿易摩擦が激しさを増し、中東では米イランの緊張感が高まる。そんな混迷の時代、政界にもビジネス界にも最も求められるのが強力なリーダーだ。通商産業相(現在の経済産業相)、首相と2回わたり、通産官僚として田中角栄氏の秘書官を務めた小長啓一氏(89)に田中氏のリーダーシップの本質を聞いた。前編は「人間力」と「構想力」。 ――田中角栄さんはやはり強力なリーダーだったのでしょうか。 「最初に田中さんにあったのは1971年7月5日、佐藤栄作改造内閣が成立した日のことです。私はそれまで通産省立地指導課長をしていました。田中さんの顔は赤銅色で艶やかで、精気と自信がみなぎっていました。ものすごい迫力と気迫、後光がさすようなまぶしさがありましたね。『こんな人の秘書官が務まるのか』。それが最初の印象でした」 ――最初、お会いになった時に田中角栄さんは何とおっしゃったのですか。 「私は通産省の官房長に呼ばれ、そ
残すところあと少しとなった19年。元号も「平成」から「令和」へと変わった激動の1年だったが、芸能界も大きく変化した1年だった。本誌が目撃した驚きのスクープから特に反響の大きかったものを今一度お届けしたい。 【写真】体調不良により、酸素吸入器とともに出かける渡 「渡哲也さん(77)が、石原プロの幕引きを決意したのです」、こう証言したのは故・石原裕次郎さんが設立した石原プロの関係者。裕次郎亡きあと、会社を支えるべく奮闘してきた渡だったが、体調問題と“ある課題”を抱え、ついに歴史に幕を降ろす決断をしたという。美学を貫く渡の胸中はいかに。(以下、2019年4月30日号掲載記事) 東京都内にある病院の前で、酸素ボンベの入ったバッグを右手に持ち、車から降りてきたのは俳優・渡哲也(77)だった。本誌が渡を目撃したのは4月上旬。実はその直前に驚きの証言をキャッチしていた。 「渡哲也さんが、ついに俳優引退と
<自分を傷付けてきた親であっても、老いてくれば介護の問題が発生する。そんな親子間の問題を考えるとき、「コーホート」という視点が少しは役立つかもしれない> 親が老いてくれば、(どんなかたちや距離感、規模であるにせよ)子はそれをなんらかの手段によって支えることになる。事実、“当然のもの“としての深い愛情を軸として、献身的に親に寄り添っている人も多いことだろう。 しかし、“そうではない“人たちも存在する。それを明らかにしているのが、『毒親介護』(石川結貴・著、文春新書)の著者だ。家族・教育問題、児童虐待、青少年のインターネット利用などをテーマに取材しているジャーナリストである。 一方で老いた親との関係に悩み、苦しむ人もいる。たとえば「毒親」を持つ人たちだ。 毒親とは十数年前から使われる造語で、スーザン・フォワードの著書『毒になる親』(一九九九年・毎日新聞社、二〇〇一年・講談社+α文庫)がもとにな
「過去最高」と評された、漫才日本一を決める『M-1グランプリ』が注目を集めた。漫才師にあこがれてこの世界に入ったというお笑い芸人のカンニング竹山さんは「相方を失ってから、命がけで続けてきたこと」を振り返った。 【写真】超貴重!大学生の頃の大久保佳代子さん * * * M-1を見ていると、正直うらやましくなりますよね。あれだけの技を見せつけられて、嫉妬している芸人もたくさんいるでしょう。一方で、自分の若かった頃を振り返ると、今の時代に若手じゃなくて良かったなとホッとしました。みんながあんなに熱くなっているし、そこで繰り広げられている漫才はとてつもなく高度だからです。 今の若い人たちの中には、僕が漫才やっていたことを知らない人も多いんですよね。だから「お笑いもやらずに何コメンテーターなんかやってんだ」ってよく言われています(笑)。 僕は漫才が好きで、漫才師になりたくて相方の中島忠幸と上京し
フォーブスが2019年4月に発表した「日本長者番付」で、2位にランクインした孫正義。 18年には1位を獲得しており、保有資産は240億ドルにものぼるという。ソフトバンク創業者である彼の、成功と実績を振り返る。 ソフトバンク創業者・孫正義とは 孫は1957年生まれ。在日韓国人実業家の次男として、佐賀県の朝鮮人集落にて育った。日本マクドナルド創業者である藤田田の著書『ユダヤの商法』に影響を受け、高校生でありながら、毎日会社に通い詰め、藤田との面会に成功。 「コンピュータだけ勉強してらっしゃい」という藤田からの言葉を受け、カリフォルニア大学で、ネットワークコンピューティングを学んだ。 大学在籍時に発明した自動翻訳機をシャープに売り込み、1億円を手にした孫はソフトウェア会社である「Unison World」を設立。81年には、日本ソフトバンク(現 ソフトバンクグループ)を創業した。 ボーダフォン買
新書『言い訳~関東芸人はなぜM-1で勝てないのか~』が、お笑い関連書籍では、異例のヒットを飛ばしているナイツの塙宣之さんのインタビュー後編。2018年の『M-1グランプリ』で、話題を集めた「上沼恵美子さんに対する暴言騒動」を塙さんはどう見たのか? 塙さんが目指す「理想のお笑い」と併せてうかがいました。 ナイツ塙「M-1優勝に大切なこと」 ■ナイツ塙は「昨年の騒動」をどう見た? ――昨年の『M-1』では、上沼恵美子さんに対する芸人の暴言騒動が話題になっていましたが、塙さんは審査員の1人としてあの件をどういうふうに見ていたんでしょうか? なるほど。まあ、何個かあるんですけど、1つはSNSっていうのが芸人とは相性があまりよくないのかな、とは思いますよね。別にカメラさえ回ってなかったらああいうことはみんな言うだろうし、本人はそんなに悪気もないし、たぶんちょっとボケみたいな感じだったと思うから。
「誰も知っていない東条さんの最期がどうであったかということを申し上げたい」。戦後直後の東京裁判で絞首刑となった東条英機らA級戦犯の教誨[きょうかい]師を務めた僧侶の講演録を、京都市の出版社が発行した。1948年12月23日、絞首刑執行日の東条らA級戦犯の様子やその2日前の執行宣告日の模様が教誨師の立場で語られている。 【写真】A級戦犯の刑執行を伝える京都新聞号外 教誨師は浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、下京区)の僧侶で東大教授だった故花山信勝氏(1898~1995年)。花山氏は46~49年まで、東京にあった巣鴨プリズンで宗教者として戦犯に仏教を説き面接する教誨師を務めた。A級戦犯の絞首刑に立ち会った唯一の日本人だった。 当初、花山氏はA級やB、C級の戦犯たち数十人と法要を営み、法話を行うことが多かった。次第に市民の支援を仰ぎながら仏教書や念珠の差し入れを行い、絞首刑判決を受けたB、C級戦
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