分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020
分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020 イングランド南部で1960年代に発見された八~九世紀頃のアングロ・サクソン系の人骨を調査していた考古学者たちが、アングロ・サクソン時代の法典類に記載されている皮剥ぎ・鼻削ぎ刑の古い例となる痕跡を発見した。CNNが報じている他、詳しくは、調査にあたったユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London, UCL)考古学研究所(Institute of Archaeology)のギャラード・コール(Garrard Cole)氏らがジャーナル” Antiquity”で調査結果についてサマリーを公開している。 Garrard Cole, Peter W. Ditchfield, Katharina Du
英国史上有名な「海賊」というと誰が思い浮かぶだろうか?アルマダの海戦を戦ったジョン・ホーキンズやフランシス・ドレイク、財宝伝説で知られるキャプテン・キッドことウィリアム・キッド、大海賊バーソロミュー・ロバーツや黒髭エドワード・ティーチ、女海賊アン・ボニーとメアリ・リードなど、冒険活劇の主人公として描かれることも多い名前が挙がるかもしれない。しかし、上記で挙げた中には実は「海賊」とは呼べない人物もいる。ジョン・ホーキンズやフランシス・ドレイクなどは「私掠」船の船長であった。では「海賊」と「私掠」はどう違うのだろうか。 海上での掠奪行為を行うのが海賊だが、海上での掠奪行為を行うものがすべて海賊であったわけではない。中近世ヨーロッパでは掠奪は経済行為と結びついて商人や農民などから王侯貴族に至るまで掠奪行為は一般的に行われていた。近世になって掠奪に関する法整備が始まり、合法な掠奪と非合法な掠奪への
イングランド王国の北辺、スコットランド王国との境界近くに位置するチリンガム村は古くから両国の対立・紛争に巻き込まれてきた。チリンガムを領したのはチリンガムよりさらに北にあるヒートン城”Heaton Castle”を守るグレイ” Grey”家で、彼らによって十三世紀頃、チリンガムに城が築かれた。1297年、スコットランド軍に包囲されて多くの犠牲者を出し(注1)、1298年、イングランド軍がスコットランド軍を破りスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを捕らえたフォルカークの戦い(1298年7月22日)に向かうイングランド王エドワード1世がチリンガム城に滞在した記録が残る(注2)。 現存するチリンガム城は十四世紀に築かれたもので(注3)、1344年、イングランド王エドワード3世よりヒートン城主トマス・グレイ” Thomas Grey”に対し、チリンガム城の築城とクレネル化(注4)の許可が下され
ジャンヌ・ダルクの心臓が火刑後も焼けずに残ったというエピソードがまことしやかに語られ、聖女ジャンヌの奇跡として取り上げられることも多いようだ。 ジャンヌ・ダルク復権裁判での証言このエピソードの出典はジャンヌ・ダルク復権裁判での関係者の証言である。1431年のジャンヌ・ダルク処刑裁判当時、ルーアン管区司祭長で処刑裁判の召集など運営実務を行う法廷執行吏を務めたジャン・マッシュウ”Jean Massieu”が以下のように証言している。 『私は、ルーアンの国王代官の書記ジャン・フルーリーがこう言うのを聞きました。死刑執行人がジャンに、ジャンヌの躯は焼きつくされて灰になってしまったが、心臓だけは無傷で血がいっぱいだったと語ったというのです。しかし灰と彼女の残したものはすべて一緒に集めて、セーヌ川に捨てるように命令されたので、その通りにしたということです。』(レジーヌ・ペルヌー編著(高山一彦訳)『ジャ
2019年6月27日発表のテュービンゲン大学プレスリリースによると、2018年秋、イラク北東部クルディスタン地域にある、ティグリス川東岸のモスル・ダム(1980年建設)の貯水池の水が引いたところ、青銅器時代の宮殿が発見された。考古学的に非常に重要な発見として海外でもCNN、BBC他各ニュースで報じられている。 動画:テュービンゲン大学/ Eサイエンスセンター制作 クルド人実業家の資金援助を受けてドイツ・テュービンゲン大学とクルディスタン考古学機構(Kurdistan Archaeology Organization (KAO))の合同チームが調査を行い、同宮殿(ケムネ宮殿”Kemune Palace”)が紀元前15世紀から14世紀にかけてメソポタミア北部とシリアの大部分を支配していたミタンニ(ミッタニ)帝国の時代にさかのぼることができることが判明した。 クルド人考古学者ハサン・アフメド・カ
ジャック・ダルクジャンヌ・ダルクの父。ジャンヌが生まれ育ったドンレミ村の名士であった。1420年頃、旧領主ブールレモン家の邸宅を村の倉庫兼避難所として使えるよう賃借契約を結んだ記録や、23年に、野武士ロベール・ド・サルブリュックと交渉して村を荒らさないよう取り決めを結んだ記録があり、1425~27年には村の取りまとめ役を務め、村を代表して何度もヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールへの代訴人となったこともある。(コレット・ボーヌ「幻想のジャンヌ・ダルク」P57-58) 彼がジャネット(ジャンヌの故郷での呼び名)のことを非常に溺愛していたことは多くの証言からうかがわれる。ジャンヌ・ダルク処刑裁判での三月十二日のジャンヌの証言によると、「父が娘のジャンヌが兵隊達と連れだって家を出てしまう夢を見た」として、父母がジャンヌを厳しく監視するようになり、あわせて母から「儂がジャンヌのことで夢に
レオナルド・フィボナッチ『インドの九つの数字は9、8、7、6、5、4、3、2、1である。これら九つの数字とアラビアではzephiriumと呼ばれる記号0でもって、以下に示すように、任意の数字を表すことができる。』 (山本義隆著「一六世紀文化革命 1」P318よりレオナルド・フィボナッチ著「”Liber abaci”算数の書」(1202年:未邦訳)冒頭の山本による邦訳を孫引き) この一節で始まる1202年の数学書「”Liber abaci”算数の書」の発行が世界史上の画期であることは誰しもが認めるところだろう。商人で数学者のフィボナッチことピサのレオナルドは、本書でアラビア数字のイタリアへの導入、同時にそれらを用いたイスラム社会の十進法での整数と分数の計算方法を解説、最初の回帰数列であるフィボナッチ数列の考案、歴史的には修辞代数に分類される代数学の提唱などをまとめ、当時の商業数学の集大成であ
大王、禿頭王、肥満王、吃音王、短軀王、赤髭王、血斧王、征服王、碩学王、賢明王、敬虔王、獅子王、獅子心王、欠地王、聖王、悪王、残虐王、善良王に端麗王・・・中世ヨーロッパの王侯貴族はなぜ「あだ名」がついているのだろうか。それに、シャルル、ルイ、フィリップ、アンリ、ジャン、カール、ルートヴィヒ、ハインリヒ、オットー、フリードリヒ、ウィリアム、ヘンリ、リチャード、エドワード・・・同じ名前の違う人物が何度も何度も繰り返し出てくるのも不思議ではないだろうか。なぜシャルルの子もシャルルでオットーの子もオットーでエドワードの子もエドワードなのだろうか。 本書ではそのような中世ヨーロッパの名前の付け方や「あだ名」の流行から、彼らの家門意識の成立過程を非常に丁寧に史料を読み解き、紐解いていく好著である。 本書によれば史料に残る限りで「あだ名」がつけられた王侯貴族はメロヴィング朝末期からカロリング朝期(八世紀)
Fate/Grand Orderのサーヴァントを時代別に分類しました。歴史上の人物および神話伝承文学等歴史上形作られた創作に由来するサーヴァントのみで、オリジナルサーヴァントは除きます。 ヨーロッパ、世界史、日本史でそれぞれ実在人物、神話伝承物語等架空の人物とに分けています。実在人物は生年準拠で、生年不明で没年がわかっている場合は没年準拠、生没年不明な場合は活動時期(君主であれば在位期間)に基づいています。実装済サーヴァントのみの表でイラストだけ公開されているサーヴァントは含んでいませんが今後追記するかもしれません。 また、架空の人物については作中の舞台が明らかなものについてはその作中の時代に準拠し、そうでないものは成立の時代に配しています。(例、12世紀~16世紀にかけて成立した6世紀のブリテン島が舞台の円卓・聖杯伝説関連人物は6世紀ヨーロッパに、9~14世紀にかけて成立した作中の時代背
セミラミス(” Semiramis ”)は伝説上のアッシリアの女王。ヘロドトスが「歴史」でバビロンの堤防を築いた女王としてその名を挙げて以降、古代ギリシアで様々な著者によってエピソードが創作され、伝説上の人物となった。 アッシリアの王妃サムラマトとその時代モデルと考えられているのは紀元前800年ごろ、アッシリアに実在した王妃サムラマト(” Shammuramat ” or ” Sammuramat ”、シャムラマット、サンムラマートなどとも表記される)。サムラマトはアッシリア王シャムシ・アダド5世(在位:前823~811)の王妃で、同王の死後、子のアダド・ニラリ3世(在位:前810~783)の摂政となった。(注1) アッシリア帝国の主要都市カルフ(現在のニムルド)のナブー神を祀った神殿エズィダにあるカルフの代官ベール・タルツィ・イルマが奉納した神像に『神ナブーに(中略)、アッシリア王アダド
「尊い・・・」ってなる、という記録が実際残されている。 記録を残しているのはゴベール・ティボーという準騎士で1429年三月二十二日、神学者のピエール・ド・ヴェルサイユの共としてジャンヌ・ダルクと面会したことがある人物である。彼はのちに兵士たちに率直に尋ねてみたのだそうだ。「お前らジャンヌ・ラ・ピュセルと一緒にいてムラムラしないの?」と。そしてそのやり取りを以下の通り書き残した。 「軍隊においては、彼女はいつも兵士たちと行動を共にしていた。ジャンヌと親しかった者の多くから直接聞いたことだが、彼女に対して彼らが肉欲を感じることは金輪際なかったという。それはどういうことかというと、彼らが彼女に欲情を抱くことはままあったにせよ、どうしてもそれ以上の挙に出ることはできなかったので、彼らは彼女を欲望の対象にすることは不可能だと信じこむようになっていた。仲間同士で、肉欲を満たし、快楽を刺激するような話を
東南アジアの歴史に対しては茫洋としていていまひとつ捉えどころがないイメージを感じてきた。目を閉じてみる。茫洋とした海原を越えた先に燦然と輝くアンコール・ワットが浮かんだかと思えば、すぐにヴァスコ・ダ・ガマらポルトガル人が押し寄せ、商人と海賊とが交錯するうちにポルトガルやオランダ、イギリスの植民地と化して、東南アジアの現地の人々の営みはすぐにイメージから消え去っていく。そのあとに浮びあがるのは二十世紀の苛酷な内戦と独裁と戦争、そして二十一世紀の目を見張る経済成長の姿だ。特に十五世紀以前の東南アジア地域のイメージは殆どないと言っていい。 近くて遠い東南アジアの歴史はどのようなものだったのか。著者は東南アジアの歴史を、古代から中世、中世から近世、近世から近代というような、直線的な『進歩と発展をともなう歴史展開ではな』(P29)く、『いうなれば「自己充実史」であり、「精神文化深化史」ではないだろう
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