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哲学と小説に関するrodoriのブックマーク (4)

  • 引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」 - 偽日記@はてなブログ

    ●引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」(『哲学とは何か』)より。 《小説はしばしば被知覚態(ペルセプト)に達している。たとえばハーディにおける、荒野の知覚ではなく、被知覚態としての荒野。メルヴィルの海洋の被知覚態。ヴァージニア・ウルフにおける都市の被知覚態、あるいは鏡の被知覚態。風景が見るのだ。(略)被知覚態、それは、人間の不在における、人間以前の風景である。しかし風景は、前提される〈登場人物の知覚〉から独立していず、またそれを介して、作者の知覚と想起から独立していないのだから、以上のすべてのケースにおいて、なぜそのように言いきってかまわないのだろうか。そして都市は、人間なしにかつ人間以前に、どのようにして存在しうるのだろうか。また鏡は、その鏡に映る老女がいなければ、たとえ彼女が鏡のなかの自分をみつめなくても、どのようにして存在しうるのだろうか。それは、(注釈され

    引用,メモ。ドゥルーズ=ガタリ「被知覚態、変様態、そして概念」 - 偽日記@はてなブログ
  • The Red Diptych ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』を読む

    プルーストの関連書をいろいろとまとめて読んでいる中で、実は未読だった、ジル・ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』を読んだので、少し感想を書いてみたい(……とはいえ、この邦訳、ドゥルーズ関連の翻訳では色々と評判の悪い宇波彰訳……。まあ私はフランス語ができないとはいえ、英訳と照らし合わせさえすれば構文的な水準での取り違えはないはず、なんだけど、今回はそこまでする労力は取らなかった……。そのため、邦訳を読んでるゆえに私が何かしら取り違えてる部分があっても、勘弁してくだされ……)。  ドゥルーズと言えば、たまたま少し前に『差異と反復』を頭から読み返していたのだけれど、そこで意外に思えることがあった。その直前にベケットの『プルースト』を読み返していたのだが、根的な着想の部分で非常に似通っているように見える部分があったのだ。そういうわけなので、ドゥルーズは実はかなりベケットから影響を受けていたのでは

  • 無知な人が知ったかぶりをすることのみじめさについて

    國分功一郎の『スピノザの方法』を先日読み終えたので、この書物に関する書評の類をいろいろ読んでいたのだが、その中で、とんでもないものにぶちあたってしまった。そこで論じられている内容がどうこうという以前に、ごく単純に間違った理解に基づく記述が見られるのだ。 その書評は何かというと、『新潮』4月号に掲載されている、福嶋亮大という人が書いたものだ。「内容がどうこうという以前に」と書いたが、はっきりいって内容もひどい。とりあえず『スピノザの方法』の内容を祖述し、それが終わったら、『スピノザの方法』とは何の関係もない、自分が書きたいことだけを書くという、書評としては最低水準のシロモノなのだ。 そこで書かれていることも、はっきり言って痛い。さらに言うと、日語がヘタなので何を言いたいのかはっきりとはわからない部分もある。例えば、こんな風に書かれている。 まさにデカルトらが夢見た普遍言語にも通じる「明晰判

    無知な人が知ったかぶりをすることのみじめさについて
  • The Red Diptych 奇書探訪(3)――ギュスタヴ・フローベール『ブヴァールとペキュシェ』

    もうだいぶ昔、十九世紀の西洋文学を読み進め始めた頃に初めてその存在を知って非常に驚いたのが、かつて「筆耕」という職業が存在したということだった。  よくよく考えてみれば、当たり前のことではある。会社や役所というものは、だいぶ昔から存在した。しかし一方で、コピー機などというものは比較的最近の発明だろう。そして、会社なり役所なりが運営される以上、手書きの文書が毎日毎日際限なく生産され、清書されたり複写されたりする必要がある。  するとどうなるか。写すのである、肉筆で。ただひたすらそれをやり続ける職業が、すなわち筆耕である。  現在の感覚からすると、ほとんど拷問のようなものなのではないか……などと思ったのだが、今となっては、当時の感覚はもはやわからなくなっているのかもしれない(だいたい、会社にコンピュータがなかった頃のことすら、既に我々の多くは思い出すことが困難にありつつあるではないか)。  絶

    rodori
    rodori 2013/10/22
    有名かどうかは知らないが、井上ひさしの『東京セブンローズ』とか?
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