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2009年5月10日のブックマーク (4件)

  • オールタイムベスト『この世界の片隅に』 - 漫棚通信ブログ版

    いやすごいものを読みました。 『夕凪の街 桜の国』(2004年双葉社)でヒロシマを描いたこうの史代。彼女が再度戦争にいどんだ作品が、ついに完結しました。 ●こうの史代『この世界の片隅に』上中下巻(2008年~2009年双葉社、各648円、amazon、bk1) 上巻・中巻で描かれるのは、昭和19年に広島から呉に18歳で嫁いできた主人公、すずの日常です。 絵を描くのが大好き、あわて者だけど明るくくじけない彼女の生活が、戦時下でありながらユーモアを忘れずにたんたんと描写されます。 しかしわたしたちは知っています。呉は軍港の街。昭和20年には空襲で壊滅的打撃をうけることを。そしてその八月にはヒロシマに原爆が落とされることを。 下巻で描かれるであろう空襲と原爆のときに向けて、上巻・中巻はゆっくりと時間を進めてゆく。 ですから、今回発売された下巻のカバーイラストを見て、まずはほっとするのです。ショー

    オールタイムベスト『この世界の片隅に』 - 漫棚通信ブログ版
  • 彦根城門外でひこにゃんが過激派に刺殺さる!「問答無用!」で斬首 - bogusnews

    滋賀県彦根市の彦根城近くで、同城に住むタレントのひこにゃんさん(3)が、暴漢らに襲撃され殺されるというショッキングな事件が発生。市民を震撼させている。ひこにゃんさんは最近、日との通商・交流を求めるアメリカのペリー提督の親戚らと親しくしており、先日はその功をねぎらってハワイに招かれたばかり。犯行グループは 「あるじに続き、飼いまでもが天皇の勅許なしに夷狄と交流を深めるとは不敬千万。天に代わって成敗した」 と声明を発表。警察は「尊王攘夷派によるテロ行為」と見て捜査している。 事件が起きたのは9日朝。市内でおこなわれる予定だったイベント出席のため、ひこにゃんが駕籠に乗り彦根城の門を出たところ、不審な男がサインを求めるふりをして行列の前方に近づいてきた。駕籠が止まると、とつぜんピストルの音が鳴り響き、周囲から抜刀した十数名の男が襲いかかり居合わせた関係者を斬殺。抵抗する者がいなくなると駕籠に次

    彦根城門外でひこにゃんが過激派に刺殺さる!「問答無用!」で斬首 - bogusnews
    sadamasato
    sadamasato 2009/05/10
    "「話せばわかる」と説得を試みたが、暴漢は「問答無用!」と首をはねたという"。あれ、この事件は5月15日に起きたんじゃなかったっけ?なんで9日付の記事になってるの?
  • 「じぶんの ただしさを うたがわない ひとは こわいですね」 - やねごんの にっき

    「じぶんが 正義だと しんじこんでいる ひとは こわい」。あるいは、「じぶんの 無謬性*1を うたがわない やつらほど タチが わるいものは ない」。 こうゆーよーな いいかたって、よく なされますよね。「ただしさ」「正義」という ことばで なにかを 主張すると、しばしば こういった いいかたで たたかれます。ほとんど もんぎりがたの きまりもんく、ひどく ありふれた 定型文と いって よいと おもいます。 たにんの 意見や 行為を ひはんしようと する ばあい、じぶんの がわに 「正義」が あると とりあえずは かんがえるのは とうぜんのことです。だから、そういう ひとに むかって 「きみの 主張は 正義ではない」と いうなら ともかく、そうではなくって 「おまえは じぶんが 正義だと しんじこんでいる、けしからん!」などと いっても、なにごとかを いったことには ならないと おもうので

    「じぶんの ただしさを うたがわない ひとは こわいですね」 - やねごんの にっき
    sadamasato
    sadamasato 2009/05/10
    正義のアウトソーシングについて。しかし、もう一つ大きな敵は、「正義なんてない」というシニシズム。世界をありのままに見る現実主義を標榜しながら、正義を唱える側を「正論原理主義」と叩く。
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
    sadamasato
    sadamasato 2009/05/10
    私はカント的な世界市民を目指したいのですが、その「世界市民」という言葉が、自らの足元にある非対称的な抑圧構造を見えなくしてしまう危険性を含んでいることに気をつけなければいけません。