仲春はゆっくりと通り過ぎる 寝て起きたら3月である。今日の東京の最高気温は20度を超えている。正月のインフルエンザが完治して、これでやっと健康で文化的な本年度を始められるぞ、と意気込んだのも束の間、今度は原因不明の高熱を出して1週間寝込んだ。 脳がグツグツ煮える音が聴こえそうなほど…
昨年物故したアメリカの哲学者リチャード・ローティが、1994年『ニューヨーク・タイムズ』に発表した「非愛国的なアカデミー」を、ざっとですが訳してみました。原文はネットで全文読めます。 The Unpatriotic Academy - New York Times 非愛国的なアカデミー 大半の人は、政府の臆病さや堕落ぶりに憤りを感じるであろうにも関わらず、また、もっとも弱きもの貧しきものに対して現になされつつあることに対する絶望感にも関わらず、それでも、自分達の国に一体感を持っている。自分達で創り出し、自分達で改良し、長く持続している立憲民主政治の市民であることに、誇りを持っている。アメリカ合衆国は、輝ける──たとえ色あせつつあるにしても──国民的伝統をもっているのだ、と思っている。 こういった原則に対する例外の多くは、大学でみられる。大学の中の学科は、左翼の政治的見地にとって、聖域とな
ウェブで絶賛(?)のこの本を読んだよ。しかし新書700円って高くないか。1日以内で読める本に500円以上払う気にならんのですよ、最近は。 自分探しが止まらない (ソフトバンク新書 64) 速水 健朗 正直言わせてもらせるえると、前のタイアップのほうがよかったなと思う。資料的な価値があるとはいえ、前作のタイアップの歌謡曲の歴史と違って、「自分探し」というカテゴライズは非常に恣意的であるからだ。さらに著者自身の屈折した思いが表出していて、なんというかすっきりしない印象(まあある程度実存的な問題に関わるから仕方ないけど)。 ともかく何よりの問題点は「自分探し」なる観念が反証不可能であることだ。自分探しをしていないと胸を張って言える人などいるのだろうか?というか、自分探しをしていないっていう状態がわからない。社会の一部の生産ラインで淡々と働くことなのか、家庭を持って幸せに暮らすことなのか。その辺が
『青色讃歌』の主人公、高橋は就職活動をしている。だから会社に面接を受けに行ったり履歴書を書いたりするところが小説には描かれているんだけど、どうせだったら証明写真を撮るシーンも書いて欲しかったなー、と読みながらかんがえていた。 高橋がどこかの写真館だかスタジオだかで証明写真を撮られているところって、かなりおもしろそうだなー、っておもって。想像しにくいけど。やっぱスピード写真かな、でもスピード写真を撮るときって、自分の顔を、自分の表情を真正面にじいっと見ながら撮るわけで、やっぱりそのときにぼさぼさの頭だったら(高橋は、面接の前日に風呂場で髪を切っている)ちょっと気になるよなー、いや、高橋はそんなの気にしないだろー、とか、なんかそんなことをかんがえたりした。 というのも、先月、近所の写真屋で自分の証明写真を撮ってもらったのだけど、まあーその表情のひどいこと!きっと微妙なとこだろうな、とは覚悟して
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