□ 原子爆弾(げんしばくだん)が投下(とうか)される前(まえ)の広島(ひろしま)には、美(うつく)しい自然(しぜん)がありました。 大好(だいす)きな人(ひと)の優(やさ)しい笑顔(えがお)、温(ぬく)もりがありました。 一緒(いっしょ)に創(つく)るはずだった未来(みらい)がありました。 広島(ひろしま)には、当(あ)たり前(まえ)の日常(にちじょう)があったのです。 昭和(しょうわ)20年(ねん)(1945年(ねん))8月(がつ)6日午前(むいかごぜん)8時(じ)15分(ふん)、広島(ひろしま)の街(まち)は、焼(や)け野原(のはら)となりました。 広島(ひろしま)の街(まち)を失(うしな)ったのです。 多(おお)くの命(いのち)、多(おお)くの夢(ゆめ)を失(うしな)ったのです。 当時小学生(とうじしょうがくせい)だった語(かた)り部(べ)の方(かた)は、「亡(な)くなった母(はは)
「私達わ恐しい原子兵器の禁止を要求します」。米ニューヨークの国連本部で7日にも成立する核兵器禁止条約の草案と同内容の実現を求め、約70年前に10代の少年らが署名活動を展開していた。その一人で広島県東部で原爆の閃光(せんこう)を見た堀田博之さん(85)=名古屋市西区=は、条約成立で少年時代の願いがかなうことに喜びを感じる。だが同時に「広島・長崎への原爆投下から核兵器廃絶が進まなかった現実が悲しい」との思いも募っている。【山田尚弘】
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