愛別離苦よりも怨憎会苦の方が夥しい
このエントリは三沢文也さんについての長文感想です。 三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。 1 三沢さんは偉い投げ出さずに完成させたことが偉いと思います。 何であっても完成させたことがもっとも価値がある。 これが一番の進歩であり収穫であって それに比べたら読者からの評価なんて些細なことです。 反省点があればすぐ次の本を書けばいいだけですから。 その上で、三沢さんはやっぱり読解力がおかしいと思います。 一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます。 引用した本の嚙み砕き方にさまざまな違和感があります。 このことは揶揄からかいのために言うのではありません。 私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかりますが 三沢さんの読書感想文はもっと不思議な感じで脳が詰まります。 2 三沢さんが仏教の本に出会った三沢さんの誤読はおそらく我が
宝石の国は、思うに視点を3段階で変えて見る必要があんのよね、話の構造的に 一段階目は「主人公が気になるアイツのために成長するだろう物語」として、徐々に変化していく主人公目線で読む アニメの範囲はこれだから、序盤〜前半は分かりやすく読みやすい 二段階目は「変貌した主人公が何をしていくのか予期できない中で、群像劇として見る」 話がどこに辿り着きたいのか予期できなくなるし、主人公の人格も定かではないので、周りの登場人物を面白がって細かい部分を見る ここで感情移入がし辛い問題が発生するし、周りのキャラが気に入らないと脱落する人も多い 三段階目は「これって仏教説話なの?悟りの先に何があるのか」と気にしながら見る 構造が何を意図しているか分からないと、どんどん置いてきぼりになる仕組み
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。 ・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。 ・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。 ・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているもの
仏教が他の宗教と違うところは神がいないことだ。他の宗教には神がいてそいつが偉そうにああしろこうしろというものである。ルールを人格化しているともいえる。一方の仏教ではルールはただルールとして存在し人格化はされていない。 仏教はただ世界観を与えるものである。まず生きることは辛く苦しいものであるとされる。その上であなたは死んだあとにまた別の存在として生き返りますと言われる。これが輪廻転生。辛くて苦しい生の呪縛から抜け出すことが仏教の目的。 善い行いをしてカルマを貯め煩悩を廃した状態になればあなたは輪廻転生から解放されますよとそういうやり口である。初期仏教ではこの修行は個人的なものであったが日中韓で流行った大乗仏教では皆でこの状態にならないと意味ないよねということから始まった。菩薩という皆の先生になりたいという煩悩のみが残った生体の概念を作り出した。 そんなわけで仏教は神であなたを脅すのではなく世
テレビで歌唱王とかいうクソみたいな番組やってて 特に興味も無くただ効果音として流してたんだけど なんか北海道の坊さんが出てきて歌ってたのよ 歌上手いなーってボーッと見てて そしたら決勝で中島美嘉の「僕が死のうと思ったのは」っていう歌を歌い出したの そこから時が止まったかのように食い入って見てしまって気がついたら半泣きになってた 曲が素晴らしいっていうのもあるんだけど歌も素晴らしく上手いし 何より坊さんだからなのか歌詞の一つ一つの重みも凄くて本当に久々に歌で感動した 審査員の評価も無茶苦茶高かったんだけど、まぁその辺はクソ番組だから最終的には2位だったね 1位はなんかゴリ押しされそうな女の子でした 確かに歌は上手かったけど、坊さんの歌が圧倒的すぎてちょっと可哀想だった そんで「僕が死のうと思ったのは」を調べたらFIRST TAKEが出てきたから聞いてみた まぁ流石に本物は凄いね とはいえちょ
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。 でも上座部の立場から言わせれば、情でどうするんだと。 なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。 ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。 時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教の需要がなくなっているのは仕方がない。 もともとの仏教は、個人が出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代や中世の時代にはそうとも言えない。 古代や中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識
emuaeda 仏教を研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的な感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。 2021/01/30 上座部仏教と大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。 (そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが) なんでかというと上座部の方が今となっては教理があるから。 大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。 だから地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった。 だから上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。 このあいだ増田でバ
南無阿弥陀仏 ありがとうございます。 あなたのお声は無駄にしません。 私たち寺院や僧侶がこのような怒りや憎しみ、侮蔑を投げ掛けていただくことについて、確かに胸に刻み、これからの世の仏教の在り方を考え直す責務を全うしていきたいと願います。 私ども真宗僧侶の多くは、知恵才覚に恵まれず、人様の懐を頼らざるを得ないような不甲斐ない存在ばかりです。 そんな私たちをも、ご門徒の皆様はお慕いくださり、種々に施しを与えてくださいます。私たちは皆様に支えられ、生かされて、初めて仏法を学びお伝えすることができるのだという事実を、これまで何度となくかみ締めて参りました。 私自身、そうした皆様のご厚意に甘えることなく生活を立ててゆける術はないだろうか、そう考えなかった時はありません。 今日、あなた様からも一石を投じていただいたことを、有り難く受け止めますとともに、あなた様のご不満やお怒りに満ちたお心にも、真の仏法
祖父がなくなった。 祖父から見て1親等の親族で生きているのは私の母のみであった。そのため葬式の段取りなどは我が家で執り行うことになっており、両親と私で相談した。相談というのも、葬式は執り行って欲しいという祖父の生前の強い要望があったが、コロナのため、どうするか悩ましいという話だった。 リモート葬式の存在を知っていた私は、近くにリモート葬式対応の業者があるのを検索で知り、これを両親に提案したところ、それでいこう、ということになった。 リモート参列者はスマホから動画閲覧で参列できるというもので、誰も現地に来ず、父と母のみ業者の方と最低限のやりとり(祖父の移動時など)を行うものであった。これならできるだけ感染拡大リスクを下げつつ、葬儀自体は執り行えるし、みんな祖父の顔も見られるであろう、と。私は当然リモート葬列だし、親族や交友関係者も含めて全員リモート葬列。 いざやってみると親戚から非難轟々だっ
あの宇宙の魔法少女は、 阿弥陀如来となったまどかの本願である 「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で」 「希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最期まで笑顔でいて欲しい。それを邪魔するルールなんて、壊して見せる。変えて見せる」 によって救われることが約束されているので、 その阿弥陀様が現れるまでの次元・時間においては、魔法少女は絶望して発狂し続けるのです。 これが他力本願です。 せいぜい宇宙の仕組みを知るほむらが 「南無真努迦仏」という名号を魔法少女たちに知らせ、 「これさえ唱えれば極楽往生が約束されるから大丈夫」 と説得することで現世での救い(気休め)が得られます。 ところで本来の仏教はこういうものではありません。 初期仏教であればマミさんは自力救済が可能です。 今日は初期仏教のご紹介のためにこちらにあがらせていただきました。 マミ
最近は新聞でも目にするようになった「空き寺」「兼務寺院」「後継者不足」が問題として取り上げられているけど、こんなの実はそんなに問題なんじゃないんです。 最も問題なのは、「空き寺」には誰が住職の籍を置いていて、「兼務寺院」は誰が兼務しているのかということと、「後継者不足」なんて実はしていないってことなんです。 ■3つの問題はリンクしている 宗門大学や大きな寺にはアルバイトの在家出身の僧侶なんて多くいるのに、なんで「後継者がいない」なんて言えるんでしょうか。 この場合の「後継者がいない」という場合の多くは「自分たちの子がいない」という意味だと思っています。 在家出身の僧侶はたくさんいるけど、そういう人たちに後継者として寺を任せたくないのが本音なんです。 というのも前述のように「寺」は「家」で、僧侶の財産になっているので血の繋がっていない知らない人に任せたくないんです。 何故こういうことが言える
全国でも屈指の寺院の密集地が中部地方にあるわけですが、知ってるだけで今年は3件追い出しがありました。 大きな変化は寄付金の大幅な減額。寺に併設された住居は処分。坊主は例外なく新車のセダン乗ったり、子弟を私立に行かせたりすることをなんとも思ってない人種なのでそこを負担しなくてよくなるのも大きい。 檀家の総代が本山に連絡して住職を送り込んでくるなと伝える。墓地の管理もしばらく総代が行う。 寺の管理は地域の自治会内に寺院保存会ができるはずなのでそこに委託。管理する寄付金が集まらなければ廃寺になるだけ。
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