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未承認国家に着目して、2022年時点のロシアによるウクライナ侵攻まで見通すための起点として、まず廣瀬さんが拠点にしたアゼルバイジャン共和国が抱える未承認国家「ナゴルノ・カラバフ共和国」がとのように成立したか見た。今回は、引き続いてその経緯を確認した上で、さらに先に進む。 かつて、日本に入ってくるナゴルノ・カラバフ紛争にまつわる情報は、ほとんど欧米経由で、その場合、ほぼアルメニア側の主張が採用されていたと前回書いた。 その理由はというと、アルメニア側が、アゼルバイジャン側に対して、はるかに情報発信に長けていたからだという。その鍵となっているのが「アルメニア人ディアスポラ」だ。 「ディアスポラというのは、世界中に離散したユダヤ人のことをもともと指しますが、ユダヤ人以外でも、自国の外で暮らす人たちをそう呼ぶことがあります。アルメニア人ディアスポラもそうで、本国にいるアルメニア人が300万人ほどな
ちょうど「侵攻」の開始から4カ月がすぎた頃の、慶應義塾大学藤沢湘南キャンパスの研究室だった。6月だというのに最高気温が35度に近い酷暑の午後で、建物全体が熱を帯びていた。そんな中で、日本から何千キロも離れた、あまり馴染みのない地域について、話を伺っていくことになった。 「コーカサス地域とは、その名の通りコーカサス山脈の南北の地域のことで、北コーカサスはロシア連邦のチェチェン共和国や北オセチア・アラニヤ共和国などを含みます。南コーカサスは、東西をカスピ海と黒海に区切られて、南側にはトルコ、イランとの国境線があり、ここには、ソ連崩壊後に独立国となった、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージアの3国があります」 地図を見てみよう。近頃、わたしたちはメディアに掲載されるウクライナの地図をよく見ることが多いけれど、コーカサス地方はその「見慣れた地図」からさらに東側に視線を移したところにある。東西をカ
デイリーポータルZで、アジャリア自治共和国の記事を書いた。 本稿は、前作「スターリン温泉」のほか、私がこれまでに書いたコソボ、イラン、トルクメニスタンの旅行記とも、わずかながら意味上のつながりを持たせている(気づかなくても読解に支障はない)。 公に発表する文章として、これが最後となっても構わない。そんな気負いで書きあげた。 「これが最後でも構わない」とは、文字どおりの意味だ。私が今月末に渡航を計画している西アフリカの地で、命を落とす可能性があるからだ。 今回は家族は連れて行かないが、奥さんに依頼されて、旅行者用の死亡保険にも加入した。国連ビルで注射も打った。WHO(世界保健機関)が指定するワクチンのすべてを。 あとは、もう、出かけるだけだ。 アジャリアの首都バトゥミには、たくさんの旅行者が訪れる。サマーシーズンは観光案内所が24時間オープンしている。観光産業を稼ぎ頭とするために、『自治』共
ロシアのウクライナ侵攻で注目を集めたドネツクやルハンシク、沿ドニエストル(モルドヴァ)といった旧ソ連の非承認国家。これまでロシアが影響圏形成のために利用してきたが、その相互関係に変化の兆しが見えてきた。 紛争が生みだした未承認国家 旧ソ連地域では多くの戦争・紛争が発生してきたが、それらの中には「凍結された紛争(Frozen Conflict)」ないし「長期に及ぶ紛争(Prolonged ConflictないしProtract Conflict)」となり、「未承認国家(Unrecognized States)」を生み出してきた。未承認国家は、簡単に言えば、「ある主権国家からの独立を宣言し、国家の体裁を整え、国家を自称しているが、国際的に国家承認を受けていない」エンティティ(政治的な構成体)である。現在、もっとも説得力を持つ未承認国家の定義は、ニーナ・カスパーセンによる以下5項目から成るものだ
アルツァフ共和国、別名ナゴルノ・カラバフ共和国を皆さんはご存じだろうか。ソビエト連邦時代はアゼルバイジャン共和国の自治州で、ソビエト崩壊に伴い1991年にアゼルバイジャンからの独立を宣言したが、国際的な承認はほとんど得られていない。人口約15万の9割以上をアルメニア人が占め、現在はアルメニア共和国の強い保護を受けている。 『フランス・フットボール』誌2月16日発売号では、ブラディミール・クレセンゾ記者が戦争により深刻な打撃を受けた、アルメニアとアルツァフ両共和国のサッカーの様子をレポートしている。ノアの方舟が有名とはいえ、日本にはほとんど馴染みのないこの地域で、いったい何が起こったのだろうか。 (田村修一) 南コーカサス南部のカラバフを巡っては、古くからアルメニアとアゼルバイジャンが領有を主張して紛争を繰り広げてきた。1980年代後半にミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカ政策が開始された
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