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ブックマーク / kasasora.hatenablog.com (11)

  • 境界を監視する - 傘をひらいて、空を

    私たちは落ちこんでいた。早く介入していればと私は言った。それは無理でしたよと林さんが言った。もっと遅れていたかもしれないんですからと石塚さんが言った。これでよかったんですと橋さんが言った。そうしてうつむいた。私たちは誰も、いいことをした気分になんかなれなかった。 七ヶ月前に、林さんは言った。何もしなくても何も起きない確率はとても高い。でも手近な窓口があることでその確率はさらに低下する。抑止力というやつだね。 林さんはそのように説明し、私と、それから石塚さん、橋さんがあいまいにうなずいた。私たちはいずれも入社十数年の中堅どころだった。林さんは私たちより上の職位で、務のほかにコンプライアンス遵守のための活動を取り仕切る役割を担っており、私たち三名の社員はその権限でもって林さんに呼びだされたのだった。 三名に割りふられた役割は、ベテランと若手の社員がペアになって動くある業務の「監視」だった

    境界を監視する - 傘をひらいて、空を
  • 仮定による傷、処方としての贈与 - 傘をひらいて、空を

    災害のためでなく、もとより私たちのあいだには電話を使う習慣がなかった。ふたりともけちなのだ。だからおしゃべりにはskypeを、それが普及する前はチャットを使っていた。 私は内心、skypeがある時代でよかったと思っていた。たいした被害も受けていなかったのに、人の声を聞いたら肩の力が抜けた。人の声がことのほかいいものに感じられた。 彼女は茨城のご両親の無事を報告し、それから、募金どこにするのと訊く。赤十字かなと私はこたえる。うちの会社もやるんだと彼女は言う。その発表したらなんかね、きたよ、偽善者ー!みたいな匿名メール。うちみたいなちっちゃい会社にそんなメール送ったっていいことなんにもないのにね。うちの関係者なんだろうけど。 糾弾はある意味でもっとも簡単な参加の方法だからねと私はこたえる。私は思うんだけど、こういう大きな災害とかって、自分の中に位置づけるのがけっこうたいへんなんだよ、直接被災し

    仮定による傷、処方としての贈与 - 傘をひらいて、空を
  • 身体を取りもどす手順 - 傘をひらいて、空を

    手放した扉が閉じる音がして、彼女はそれにもたれかかった。頭がしびれるような停止の感覚があり、背中が扉を擦って滑り落ちる感触があった。触覚は一秒の何分の一かごとに遠ざかり、彼女はおなじみの感覚、世界から柔らかく厚い皮膜で隔てられているような感覚の中にいた。その中で自分が玄関に座っていることを自覚した。 深夜に職場から帰るなり彼女はそのようにして、それだから傍らには終夜営業のスーパーマーケットから持ち帰ったプラスティックバッグがいびつなかたちに崩れて中身をこぼしていた。電灯のスイッチに手を伸ばさなかったから視界は平板に黒い。彼女は自分が電灯をつけることを想像する。可笑しいと思う。肩より高いところに腕を持ちあげて指先を小さいプラスティック片に命中させるなんて、たちの悪い冗談みたいな気がした。ウィリアム・テルだとか、そういうたぐいの。 可笑しさも電灯の概念もスイッチの形状も唐突に彼女の意識から姿を

    身体を取りもどす手順 - 傘をひらいて、空を
    shadow-toon
    shadow-toon 2010/10/05
    "二十代の老人なんかいくらでもいる。"
  • 私を非難しないで - 傘をひらいて、空を

    うん別れた、たぶん。彼女はそう言い、たぶん、と私は訊きかえす。彼女はうなずく。私は考えながら質問する。 私のささやかな経験によれば、別れっていうのはそういう曖昧なものではなくって、いわゆる別れ話をして荷物をまとめて、持っていたら合い鍵を置いて、一緒に撮った写真を眺めて涙する、みたいな、そういう明瞭なものではないの。 それどっちかっていうと離婚じゃない、と彼女は訊く。私は少しはずかしくなって、結婚の経験はないよとこたえる。彼女はなぜだか数秒のあいだ笑って、あなたと私では彼氏の定義がちがうんじゃないかなと言う。私、彼の家に行ったことない。写真も持ってない。彼は私を撮ってたけど。別れ話っていうのもよくわからない。どっちかが別れる気になったらそれでおしまいなのに、何を話すの。 私は衝撃を受けて少しのあいだ口を利けないでいた。ひとつずつ質問しよう、と思う。まずおうちについて。どちらかの家によく行くの

    私を非難しないで - 傘をひらいて、空を
  • 彼女の砂漠の女 - 傘をひらいて、空を

    彼女はこの十年で二度職場を変えた。二つ目の職場にいたときの彼女は、継続的に摩耗していた。首筋から背中にかけて、骨でしかないはずの場所から常にかすかな痒みが滲んでいた。 私の骨髄が劣化している、と彼女は思った。骨の中身が腐った水になってそこから虫が湧いているみたいだ。それからその比喩のばかばかしさに少し笑った。骨の中で虫が育って生きていられるはずがないじゃないか。 それからこの思いつきそのものを骨の病気にかかった人に失礼だからやめなさいと言う人がいるんだろうなと思った。独白での言い回しにさえ監視の目を意識するような怯懦が習い性になっていた。彼女は玄関でを脱ぎながらそのことに気づいて台所から古いカップを持って玄関に戻りそれを三和土に投げつけた。いい音がした。それは最初に親しくなった男の子が(彼は男の子で、彼女ももちろん女の子だった。十八歳のかたくなで潔癖な女の子だった。彼は彼女を好きだと言っ

    彼女の砂漠の女 - 傘をひらいて、空を
    shadow-toon
    shadow-toon 2010/08/10
    自分の中に向き合う他者がいて自我が成り立つ。
  • 不幸への欲望と作り話という装置 - 傘をひらいて、空を

    昇格おめでとうと言うと彼女はうつむき、ばれてたんだとつぶやいた。わりとわかりやすいと思うよと私は言った。いいことだけ反対のこと書いてるでしょう、ずっと。 私はここ一年ほど彼女のブログを読んでいた。リアルな友人としてSNSでつながり、そのプロフィールで紹介されていた別のブログを見て、RSSリーダに登録した。しばらく読んで気づいた。彼女は嘘を書いている。 もちろん、匿名ブログに事実以外について書くのは少しもおかしなことではない。私だっていちばんの趣味はうそブログを書くことだ。嘘はなにしろたのしい。誇張も、反転も、部分的なすり替えも、言い回しだけ整えるのもたのしい。 でも彼女は私のように好き勝手に話をつくって遊んでいるのではなかった。彼女の嘘には法則があった。基的にほんとうのことが書いてあり、ただ、とくに良いできごとが起きたとき、それを反転する。悪いできごとにすり替える。私は彼女とときどき連絡

    不幸への欲望と作り話という装置 - 傘をひらいて、空を
  • 便宜的な憎しみ - 傘をひらいて、空を

    十代の終わりのころ、ファミリーレストランでウェイトレスをしていた。深夜になると外国から来た水商売の女性を幾人もはべらせた男の人が彼女たちにごはんを奢るために現れる。彼女たちはウェイトレスをつかまえて率直な英語で訊く。あなたいくつ?中学生?大学生?うそー!勉強たいへん?ボーイフレンドいる?ちゃんと寝てる? 私は中学校の教科書に載っているような構文で彼女たちの質問にこたえ、テーブルの上が望ましい状態になるとちいさく手を振ってそこを離れる。彼女たちはときどき複雑な文法の運用を要する質問をした。どんな勉強をしているの?ボーイフレンドはどんな男の子?将来はどんなふうになりたい?私はそんなとき、あいまいに笑ってなにかで読んだせりふを棒読みする。I'm sorry, I don't understand you. 彼女たちは一緒にいる男の人が英語を解さないのをいいことに、ずいぶんとあけすけな話をする。彼

    便宜的な憎しみ - 傘をひらいて、空を
  • マジョリティの夢 - 傘をひらいて、空を

    夫とふたりで暮らしはじめて三年になる。夫の名は直樹という。育った家は千葉県君津市にあり、以前は酒屋だった。今はコンビニエンスストアを営んでいる。二階が住居で、両親と兄夫婦と、そのふたりの子が住んでいる。 夫の口癖は「まあいいか」で、私は夫のそういうのんきなところが嫌いではないけれども、自分が悪いときにもまあいいよねと言うのはやめてほしい。夫はよく話すけれど、内容は少し退屈だ。よく言えば常識的な、悪く言えば類型的なものの考えかたをする。趣味はとくになく、そのことを少し恥じている。 夫は怒ったり不機嫌になったりすることはあっても、それに飲みこまれるということがない。なんかさあ、三十分くらいたつと、怒ってたことがどうでもよくなっちゃうんだよね。夫はそう言う。 夫は私よりひとつ年嵩で、都内の私立大学を出たあと、品メーカで営業をしている。仕事は無難にこなしているらしい。ちかごろ体重が増えたことを気

    マジョリティの夢 - 傘をひらいて、空を
  • たったひとつの、冴えないやりかた - 傘をひらいて、空を

    どうやって治したんですかと彼女は訊いた。白い顔に宿命的な隈をはりつけ、どこかちぐはぐな印象の服装をした大学生だった。 十年前に卒業した研究室をたずね、恩師への相談ごとを終えてお茶を飲んでいると、もうちょっとここにいてと恩師が言う。会わせたいゼミ生がいてね、話したらきっと役に立つ先輩が来るからおいでって言ってあって、だから待ってて。 私と同じ業種を希望している学生の進路相談だろうと思っていると、顔色の悪い女の子がやってきた。自分のからだの半径一メートルを常に走査しているみたいな女の子だなと私は思った。通りいっぺんの自己紹介と無難な世間話を済ませると、恩師が学生のほうを向いて言う。 ほらあの、評価されるとだめになっちゃうっていう話、どうしてかわからないけど何か区切りになることをやり遂げたりするとそのあと具合悪くなっちゃうって前に言ってたよね、あの話がしたくてさ、俺ちょっと調べたんだよ昔、そうい

    たったひとつの、冴えないやりかた - 傘をひらいて、空を
    shadow-toon
    shadow-toon 2010/07/03
    "ごめんなさいと私は言った。たぶんその種の問題に冴えた解決方法はないんです。泥くさいやりかたしかないの。"
  • 新しいから傷つける - 傘をひらいて、空を

    友だちの家のPCの動作がおかしいというので見にいった。だいぶ古くて起動に十分もかかる状態だったので、さしあたり彼女が必要としているDVDの再生ができるようにクリーンインストールすることにした。 彼女の仕事用の携帯電話が鳴り、彼女は私にことわって出た。はい、いつもお世話になっております。いえいえ、はい、なるほど、担当がそのようなことを申しましたか。 彼女は五分ほど電話で話しつづけた。ほとんどは相槌だった。いろいろな種類の、さまざまな重さの、一定以上の温度を保った相槌だ。彼女はそのあと、仕事にしてはいささか親しげに短く笑って、いいえ、いいんですよ、と言ってから電話を切った。 私はBIOSを確認し、それを覗いた彼女はなんだか怖そうな画面、とつぶやく。怖くないよ、これはWindowsの下に入っているソフトなんだよと私は説明する。 ディスクがかりかりと音をたてて書きこみをはじめる。私は彼女の出してく

    新しいから傷つける - 傘をひらいて、空を
    shadow-toon
    shadow-toon 2010/06/26
    「正しい」だけでは解決しないこと
  • 幸福の貧困なイメージ - 傘をひらいて、空を

    今日は何してた、と訊くと、だいぶ寝坊した、と彼女はこたえた。 それで家の、彼の家の近所に事をとりに行って、うん、あの人あったかくなると料理しなくなるのね、それで今あの人の冷蔵庫は空なの、そして私たちはとても大きなサンドイッチをべてコーヒーをのんでおしゃべりをして、そのあと公園を散歩した、ばらの花の咲いている公園、花屋さんのばらは蕾のうちに売るでしょう、公園のばらはだらしなく開いて牡丹みたいで私は好き、それから彼はプールに行って、私はここへ来たの。 そういうのを甘い生活というのではないかしら、と私は言った。私たちは大仰な建物の高いところにある宇宙船のような美術館を出て、大きなガラス窓からミニチュアの都市を観ていた。足下の部分は建物の庇しか見えなくて、私は少しつまらなかった。私は高いところに行って怖がりながら下を見たときに足首と胃の底がこまかく波うつ感じが好きだ。 彼女はゆったりと笑ってか

    幸福の貧困なイメージ - 傘をひらいて、空を
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