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  • 教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3

    1615年8月22日、遣欧使節一行はスペインのマドリードを出発してローマに向かった。 この直前の8月1日付でスペイン国王フェリペ3世(画像)は、ローマ駐在大使フランシスコ・デ・カストロ伯爵に対し、支倉常長以下使節一行がローマ滞在中に援助をするように命じた書簡を送っている。 「…日における奥州の王の大使が当地に参り、今その地(ローマ)へ渡航しようとしております。その重大な目的については、彼が諸君らに直接告げるでしょう。当地で協議した用件(交渉事)は、われらの主のために非常に有益であった。朕の名において彼(支倉)を助け、彼が諸君に求めることはすべて朕が非常によく奉仕したように、貴下も同様に彼らのために最も都合の良い方法で援助するように命じます。…」(「伊達政宗の密使」p.164所収) この書簡の中で国王は支倉常長を「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も賞賛を受けるに値し」と絶賛しているのだ。

    教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    使節一行はローマに75日間滞在したが、期待した成果をほとんど得ることなく1616年1月7日にローマを去り再びスペインに向かったが、ようやくスペインに戻るとインディアス顧問会議から国外退去の勧告を受けている。
  • メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2

    前回は、伊達政宗が慶長遣欧使節をスペインやローマに派遣した経緯と、真の派遣目的についての大泉光一氏の説を紹介した。 今回は、この使節が訪れた国々に残された記録から、この使節がどういう行動を取り、派遣先の国にどう記録されているかをみてみよう。 慶長遣欧使節は慶長18年9月15日(1613年10月28日)にサンファンバウティスタ号で牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出帆し、3ヶ月後の1614年1月28日にメキシコのアカプルコに入港した。 Wikipediaによると「3月4日、使節団の先遣隊がメキシコシティに入った。先遣隊の武士がメキシコシティで盗人を無礼討ちにし常長ら10人を除き武器を取り上げられた。」と記述されており、メキシコに着くなりいきなりトラブルからスタートしている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3

    メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    スペイン・ローマを目指した支倉常長やソテロらは、遂に1614年10月にスペイン王国最大の商業都市セビリヤ市に到着した。スペイン国王にはイエズス会から、日本において幕府がキリスト教を禁止している情報入っていた。
  • 伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

    学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。 改めて「もう一度読む 山川の日史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。 しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。 幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務

    伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/09
    前年に公布された幕府の禁教令にも関わらず、仙台藩主伊達政宗が慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣している。この時期に政宗が慶長遣欧使節を送った目的はどこにあったのか。
  • 幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都

    以前このブログで、明治2年(1869)に『遷都の詔勅』が出されないまま「東京遷都」が強行されたことについて、京都を中心に書いた。 教科書では東京遷都について、 「人心を一新するため、同年(1869)9月、年号を明治とあらため、天皇一代のあいだ一年号とする一世一元の制をたてた。同年7月、江戸は東京とあらためられ、明治天皇が京都から東京に移ったのをはじめ、翌年には政府の諸機関も東京に移された。」(『もういちど読む 山川日史』p.218) などと簡単に書かれているのだが、当時の京都地図を『”超検索”幕末京都地図』で確認すると、今の京都大学のキャンパスには以前は尾張徳川屋敷や土佐山内屋敷などがあり、同志社大学のキャンパスには薩摩島津屋敷や多くの宮家や公家屋敷があり、平安神宮から市立美術館、市立動物園あたりも、彦根井伊屋敷、越前松平屋敷、加賀前田屋敷があったことがわかる。 http://onjwe

    幕府瓦解後に進行した江戸の荒廃と、政府転覆を目論む勢力の拡大を食い止めた東京遷都
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/08
    江戸には徳川家家臣や諸藩の屋敷が数多く置かれていたのだが、参勤交代が無くなりこれらも不要となって空き家となり、江戸の人口は急減して急速に荒廃し、治安も悪化した。東京遷都はその対策として発案された。
  • 東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか

    前回の記事で、明治2年(1869)の「東京遷都」の際に「遷都の詔勅」が出ておらず、東京を首都とする法令も政令も出ていないことを書いた。 明治政府は京都市民らを騙して東京移転することを強行したのだが、「遷都の詔勅」が出せなかったほど京都市民らによる反対が大きかったということだろう。 明治政府がそこまでして「遷都」を強行したことを、どう評価すればよいのだろうか。 前回の記事で紹介した故大石慎三郎氏の『日の遷都の系譜』という論文には、もし東京遷都がなければ、中央集権的統一国家が簡単には生まれなかったのではないかと書いておられる。 「…江戸時代の日は…金を主要通貨とする関東・東国経済圏と、銀を主要通貨とする畿内・西国経済圏とがあった。 これを金経済圏に足場をおく徳川氏が力で銀経済圏をおさえこみ、統合していたというのが江戸時代の基構図であった。幕末政争はこのような状況のなか、銀を主要通貨とする

    東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/08
    首都の機能が東京に移転してしまえば、京都の人口は大幅に減少し、武家や公家が贔屓にしていた店や寺社は収入が激減して産業は衰退し、あちこちに住人不在の屋敷が残され荒廃していく。それをどうやって防いだのか。
  • 正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える

    京都に生まれ育ったこともあって、京都御所の一般公開には何度か行った。 京都御所は毎年春と秋の2回一般公開が行われ、紫宸殿や清涼殿などが公開されるのだが、公開日数がそれぞれ5日程度と短く、期間中は大勢の観光客が訪れる。 上の画像は3年前の春に公開の時に撮った紫宸殿だが、この建物の中央の奥に天皇が即位される儀式で天皇の御座(ぎょざ)として用いられる「高御座(たかみくら)」の一部が見える。 この時は「現在の高御座は古制に則って、大正天皇即位式の際に造られたものです」との解説板をあまり深く考えずに読んだだけだったのだが、最近になって、「高御座」が東京の皇居には存在せず、京都御所に常設されていることを知った。 「高御座」が京都に常設されているために、明治天皇のあとの大正天皇、昭和天皇の即位の大礼はいずれも京都御所で執り行われている。今上天皇の即位の際には、この「高御座」を東京の皇居まで運んで大礼が行

    正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
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    shibayan1954 2017/11/08
    明治二年(1869)三月明治天皇は京都を離れて東京へと遷り、翌年には太政官もそれを追った。しかし遷都の詔は発布されておらず、天皇が即位される儀式で用いられる高御座(たかみくら)は今も京都御所に残されている。
  • 軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」

    真珠湾の奇襲攻撃に成功してからほぼ3年が経過した昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に、M7.9の巨大地震が起っている。地震の震源は和歌山県新宮市付近で、断層の破壊は北東方向に進んで浜名湖付近まで達したという。 内閣府『防災情報のページ』にはこう記されている。 「…海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。…震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。」 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/ 三重県津市や四日市市、静岡県御前崎市、長野県諏訪市で震度6を記録し、

    軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    昭和19年(1944)12月7日の昼過ぎに、和歌山県新宮市付近を震源とするM7.9の巨大地震(昭和東南海地震)が起こり、死者1,223人の被害が出たのだが、戦意高揚に逆行するためこの地震の情報を軍部が握りつぶしている。
  • 『明暦の大火』の火元の謎を追う

    明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼け、特に江戸開府以来の古い市街地はほぼすべてが焼失し、焼死者が十万人余を数えたという大火災が発生した。世に言う「明暦の大火」である。 この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。 作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさしあぶみ』の「明暦の大火」の記述の一部を原文で読むことができる。 http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg146.html そこには、 「…去年霜月の比より今日にいたるまて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこ(粉)おちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急を

    『明暦の大火』の火元の謎を追う
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    shibayan1954 2017/11/07
    明暦3年1月18日から1月20日にかけて、江戸市街の約6割が焼けた『明暦の大火』の火元は本郷丸山町の本妙寺と言われているが、その本妙寺のHPには「幕府の要請により(本妙寺が)火元の汚名をかぶった」と書かれている。
  • 国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2

    前回は「お水送り」の神事を行う若狭神宮寺のことを中心に書いたが、今回はほかのお寺のことを書くことにする。小浜には歴史のある素晴らしいお寺がいくつもあり、とても一日では巡りきれないくらいだ。 福井県の建築物で国宝あるいは重要文化財に指定されているものは26棟あるのだが、このうち小浜市に7棟が存在する。うち2棟は国宝で、福井県の国宝はこの2棟しかない。また彫刻では46躯のうち24躯が小浜市に存在しその大半が仏像だ。 http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/itiran.html 旅行から帰ってから見つけたのだが、若狭おばま観光案内所作成のデジタルパンフレットは、非常によくできている。小浜の古刹の素晴らしい仏像の画像とマップとを古刹の由来と住所・電話番号が記載されており、小浜の古刹巡りは、このファイルを印刷しておけば、自転車で巡るにせよ、カー

    国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    福井県の建築物で国宝あるいは重要文化財に指定されているものは26棟あり、このうち小浜市に7棟が存在する。うち2棟は国宝で、福井県の国宝はこの2棟だけだ。彫刻では46躯のうち24躯が小浜市に存在しその大半が仏像だ。
  • 東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1

    東大寺の有名な「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。 この行事は過去一度も途絶えることなく続けられて今年は1260回目の「お水取り」が行われたことになる。 この「お水取り」という行事の前に「お水送り」という神事があり、それが福井県小浜市にある古刹で、毎年行われていることに興味を覚えて、「お水送り」の舞台となる若狭神宮寺や鵜の瀬(うのせ)を訪ねてきた。 上の画像はネットで検索した毎年3月2日に行われる「お水送り」の画像だが、白い装束で身を包んだ僧侶や神人が松明を掲げて鵜の瀬に進み、若狭神宮寺の住職が東大寺の「若狭井」に向かって送水文を読み上げ、邪気払いをしたのち後御

    東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/07
    若狭神宮寺は今も神仏混淆の伝統を​継いでいる寺で、東大寺の二月堂のお水取りに先立って、お​水送りの神事を奈良・平安の時代から続けている古刹である。ここから平安京、平城京、飛鳥、熊野はほぼ直線上にある。
  • 赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5

    赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。 『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。 http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm それによると、 「屋内での死者二人、負傷者二人、屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」 「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜

    赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    吉良義周の墓には「世論に圧され​ていわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親​の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事​件最大の被害者であった。」と記されている。
  • 江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4

    赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。 次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。 http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm 「東下りの関所においても無事であり、心配していたことも無く下向できました。他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。これについては噂も色々あるようです。若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。吉良邸を打ち破ることは特別で、その通りにさせておこうとしていると推察しています。私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています。」

    江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    大石内蔵助が吉良邸討入りの前日に書いた手紙に、幕府​は赤穂浪士がいよいよ吉良邸に討入りすること​を知りながら、その通りにさせようとしていると書いている。
  • 赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3

    吉良邸討ち入りを決行した赤穂浪士を死罪とするか、切腹させるか、助命するかで意見が割れて幕府がその判断に随分苦慮したことを前回の記事で書いた。 当時の著名な学者にも意見を求め、結局荻生徂徠の意見が採用されて赤穂浪士たちには切腹が命じられたのだが、五代将軍徳川綱吉はこの裁断を下すのに、なんと四十日近くかけたのだそうだ。 将軍綱吉といえば貞享4年(1687)に出した「生類憐みの令」があまりに有名で、厳しい態度で政治に臨んで民衆を苦しめたイメージがあるのだが、学問を重んじて文治政治を推進し、好景気を現出して近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉らの文化人を生み、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠らの学者を多く輩出し、最近では少なくとも綱吉の治世の前半については評価が高まっているという。 綱吉は特に儒学(朱子学)を重視した影響から尊皇心が非常に厚く、元禄14年(1701)の松の廊下事件の際に、浅野内匠頭が大名とし

    赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
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    shibayan1954 2017/11/06
    赤穂浪士の討入りで上野介を討ち果たした後、将軍綱吉は赤穂浪士の処分を決めるのに四十日近くかけている。結局全員に切腹が命じられたのだが、赤穂浪士の討入りを義挙とする幕府の判断に、問​題はなかったか。
  • 赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2

    前回の記事で赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。 この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはどこかおかしい。 そもそも浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由がよくわからない。『忠臣蔵』の物語には吉良がひどく浅野を苛めたことがいろいろ創作されて書かれているのだが、当時の記録からはそれらしき理由が見えてこないのだ。そして肝心の赤穂浪士もその理由がよくわかっていなかったとしか思えない。 刃傷事件の当日の浅野内匠頭に関する記事は、現場にいて後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼

    赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
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    shibayan1954 2017/11/06
    赤穂浪士討入りの後、志士に対する同情と​讃嘆が白熱し、助命嘆願書が提出されていた中で、志士を死罪とするか切​腹させるか助命するかで幕府が随分対応に苦慮したようだ。この時の​議論を読むとなかなか面白い
  • 浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

    毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。 子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。 Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは 「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。 ただし忠臣蔵は、かなりの演

    浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
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    shibayan1954 2017/11/06
    子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。
  • 「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3

    前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日の史料を読む限りは考えにくいということだ。 では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日に来たのかずっと疑問に思っていた。 この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。 『八幡愚童記』によると、蒙古は日を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。 『高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年

    「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3
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    shibayan1954 2017/11/06
    三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、蒙古軍の作戦失敗などもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。
  • 熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2

    前回は、蒙古軍が最初に日を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。 いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。 しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日

    熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    文永の役について『元史』では蒙古軍の撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。
  • 「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

    学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。 「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。 たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。 「元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。 「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめ

    「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があって初めて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力である。
  • 秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

    天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・糧を運びながら、なぜ、能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。 能寺の変は6月2日の朝だが、そもそも信長が死んだという情報が届かなければ秀吉は動けない。しかし秀吉が毛利と和睦したのは2日後の6月4日である。能寺の情報は6月3日か4日の未明時期には秀吉の手元に届いていたことになるのだが、この情報が届くのがそもそも早すぎるし、また毛利との交渉がまとまるのも早すぎ

    秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    秀吉の「中国大返し」。情報入手ののち毛利軍との和睦交渉をまとめたうえで、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわ​ずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思​う。
  • 家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

    歴史の定説では、「能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」) また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名跡を継いだ人物である。 家康に関する小説やドラマを見ても、またブログの記事を見ても大半が同様な内容になっている。 前回記事で、当時の史料を読むと家康と光秀はつながっていた可能性が高いことを書いた。 ある読者から質問が来て、もし家康と光秀とがつながっていたとしたら光秀軍が襲ってくることはありえないのだから、家康生涯の最大の危機と言われている「神君伊賀越え」というのは何だったのかという質問を受け

    家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    本能寺の変を知った家康は、落武者狩りなどの遭遇を回避するために、僅かの供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、命からがら三河に帰ったことになっているが、当時の記録では家康にそのような危険はなかった。