アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。 しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧