今日のドライブは遠回りして一切の渋滞を回避するルートを開拓してみよう。スタートダッシュがずっと続く東への道。トーストのような風景の続く南への道。いつもより17キロ多い距離を走り、時間は渋滞ルートと同じ3時間半だった。休みなく走ってみて、快調なルートはうまくいかないルートより疲れる、ってことを少しね。 希望という名の 重い荷物を 君は軽々と きっと持ち上げて
2021年が終わる。 過ぎてしまえば過去で。過去になっていくことにぽかんとするが。 でも2021年、わたしは確実に死ぬ覚悟をした。 死ぬとは言わないが、死なないとは言えない。ただ最善の治療をする。その最善の治療をするために、あなたは昏睡する。 この説明で、「目覚めるかどうかわからないまま、目をつぷる」というのは死ぬ覚悟だろうと。 そしてそれが全て過去になり、わたしはぽかんとする。 そうやって過去になっていくことをながめるのもまた、生きていくということなのだろうと思う。 いつかくる大地震よりも、実は確実に「死ぬ日」がくる。当たり前のことを知った2021年だった。 そうやってまた、新しい年を生きる。
息子は年末はいつ戻るのかと、夫がわたしに聞く。「言ってこないし、聞いていない」と、わたしが答える。 いつ来るのか、いつから休みなのか、いつまで休みなのか。 横浜ではなく都内に住んでいた時の、舅姑のこの質問がすごく嫌だった。休みになったら「自分の家」でまずくつろぎたいし、「自分の家」でやることもやりたいこともある。そういうことを思う自由を奪われる感じでものすごく嫌だった。 舅姑が、とは言わずに、わたしはその手の質問がすごく嫌だったから聞いてない。あの子が自分で決めるでしょと、夫に言う。 すごく嫌だったから、と言う時に、夫が(ああ)という顔をするから、ああ彼も嫌だったのかと思う。 「仕事おさめの日があって。休みになったらまず自分の部屋でゆっくりしたいだろうし、したいこともあるだろう」「まあ、それで本人が決めることだ」。 そうそう、と思う。そういうもんだ、と思う。 自室をいつもぐっちゃぐちゃにし
おばはんはアマゾンアンリミテッドのお試しに入ったのをいいことに おまかせの80年代シティポップスをききまくって、 30年ぶりぐらいに「安全地帯」の「熱視線」を聞いたりして あら、もっとアップテンポかと思ったら案外ゆっくりだな、なんて、 この曲は私世代に絶大な支持を集めた「石原真理子」様を思い出させる。 それはそれは魅力的で、あほな女子大生は皆彼女になりたかったものよ、 当然、足元にも及ばないわけですが。 彼女の魅力はあの時期に本当に破壊的であったと思い出す。 友達とよく彼女の載った雑誌を回し読みしたものよ、、、 なぜあんなに好きだったんでしょうな。 やはりあほな女子大生だったからでしょうな、 うちの娘たちが私のような「量産型あほ女子」でなくてよかった。 昔の曲を聞きなおすのもなかなか良い。 それは現在がより良いと理解できるから。 石原真理子様になれなくてよかったわ、ああなったら年をとるのが
ホテルの窓がなぜ開いたのか。コロナ下で空気の入れ替えをするためだったとか。 窓があかなくても起こったことなんだろうが、これもまたコロナ禍の一つ。 過酷な仕事を続けていたら、息抜きは絶対必要、 しかしこのコロナでは息抜きの種類も限られる。 俳優業のような容姿にかかわる仕事をしていれば、 ストレスを溜めないための「食べたいものを好きなだけ食べる」も許されないだろう。 がむしゃらに仕事をして疲れもたまった繊細な表現者は 死にしか安らぎを見出せなくなるものか、三浦春馬君から続く訃報に打ちのめされる。 「憧れの聖子ちゃんの赤ちゃん!」と私世代の女性はみんな彼女を 希望の光として生まれる前から見つめていた。 そんな存在であったのは、時に彼女にとってはつらかっただろう。 でも、これからだった。 これからいろんなことが理解できて、これからたくさん幸せを得るはずだった。 年をとってトップアイドルとして生き続
昨日はてなでブログを持っている伊藤塾講師のツィッターで萌え絵規制の話題が出て 私はいつも「天皇陛下が外国の賓客をお迎えする部屋でも 巨乳、股間のラインが透けてる「お顔はほぼ幼稚園児」のアニメ絵があっても 「表現の自由!」で世界的に突っぱねられるものか」と思う。 或いは保育園の壁に巨乳でほぼ半裸の女の子が描かれてるとかね。 多分、これは「ふさわしくない!」の一言で「なし」なんだろうが、 「ふさわしくない」と「不快」の違いはどこにあるんだろう。 まあ、少なくとも保育所の壁に巨乳で半裸の女の子の絵が描かれていたら 子供を強いて通わせる親はいないだろうからしないってだけの話だろうが、 では、何故、そういう保育園だったら親は警戒するのか、 やはり「ふさわしくない」が暗黙の了解として存在し、 それと「不快」との間にはどの程度の差があるのか、 このあたりのことを語っているのを見かけることは少ない。 私は
年賀状、四種類作った。 夫用 娘に関する人間関係用 わたしの友達用 わたしの親族用 1と4は同じデザイン。差出人を変えるだけ。無料素材を使う無難なもの。たいがいプリンタメーカーのサイトにいく。 2と3は、年賀状というより「ハガキにプリントされた手紙」。いつごろからかこのやり方が定着した。 ひとりひとりにメッセージを入れるのは大変で、そうかと言ってただのテンプレではもらってもつまらない。では「全員に手紙を書けばいい」と思った。読む年賀状。 たいがいこの一年にあったことを内容にする。この一年にあった大きなことと言えばコロナだ。娘がどんなふうに乗り越えたか、娘に携わってくださった方々には話したい。 でもやめた、娘の人間関係には。娘の感染は娘が通う事業所にとっての「感染者一名」だから。事業所側がわたしたちをずっと守った匿名性というものがある。 弟が家を出たこと、それに娘が順応したこと。それから自力
上京しなくなってかれこれ2年がたつが、 極端に失礼な若い男性が目立つのが都心であると考えている。 それもこぎれい、小ざっぱりした身なりのワカモノ、 意外にド・ヤンキー風の身なりの兄ちゃんたちでそういう人間を見たことがない。 それはともかく、可愛い子供がいて愛想を振りまいてくれたらにっこりするのが 普通の「おばちゃん」の仕事、と地方のおばはんである私は信じているが それを妙に嫌がる人間が都心にはいる。 「俺の認めた人間以外が俺の存在を認識することは、許さん!」みたいな、 とがった感じの若い男性は自分にちょっと邪魔だったりしたら 平気でおばはんを突き飛ばしたりする。 以前、上の娘と新宿某所でとあるイベントを見物して どんくさい私が娘とはぐれて展示物の前をうろうろしていると、 突然「邪魔!」と叫ばれて突き飛ばされた。 あまりの衝撃によろめいた私が見たのは スマホ時代のイマドキに大きなカメラを構え
あら、わたしの人生ってここで終わるのかもなのかな。 と思ったときに。ここ越えられたらば、とにかく好きなように生きたいと思った。人生には終わりがくるのだ。そしてそれは、突然くるかもしれないのだと。 着古した普段着は捨てようと思った。毎日気に入った服を着ようと思った。人生は有限だ、もったいない。 欲しい機械は買おうと思った。何が欲しい?たいがい電気ものだ。 とか思っていたのだが。あの入院の日々が遠くなると、なんとなく元に戻っていく。 しかし、ほしいものに対しての思いはあるのだね。我慢できるかどうかではなく。 夫はわたしにわたしが欲しいものを買ってくれたいの、いつも、クリスマスに。 でもね、わたしの欲しいものは小綺麗なテナントビルではなく、電気屋にあるの。 やっと言えたよ、ずっと欲しかったもの。ヨドバシオンラインの決済ボタンを夫が押して、「プレゼントだよ」と言った。 たけーのよ。でも欲しかったの
筑波大セクハラ事件は伊藤詩織さんの事件みたいになりそうだな、と思ったら 増田で案の定「やられる側に問題がある」と出て、 就職先の紹介を頼んできた女性を泥酔させて性行為を行っても良いのか、 自身の研究室の学生のおっぱいを触って良いのか、というのは 「ダメ。絶対!」と教えないとわからないものかね。 これのどちらも「女性が誘ってきた!」が「正義」として出るが、 自分のものでない札束が前にあったから自分のものにするのは、 普通に「泥棒」だよな。 「あったから盗った」と「媚びてたから応じた」は同じようなものよ。 この手の件については「媚び」がしょっちゅう問題になるものの、 若かりし頃、たまたま色付きリップをつけてただけで 「俺のために口紅を塗って誘っている!」と勘違いした人間に出会ったことがあるので 何を自分への「媚び」と見るか、受け取る側だけが決められるかのような風潮は いつまでたっても廃れないも
印象に残ったことを。 まだ記憶に鮮やかなプリンセスご姉妹の抱擁場面。 思わず「頑張って」と笑顔でお姉さまを抱き寄せたように見えた 美しい映像は心を豊かにした。普段の仲の良さがうかがわれて 一部マスコミが何を言ったとしてもこの姉妹はちゃんと育っている。 嫁ぐ姉が一番身近な妹に強い信頼をされているのは素晴らしい。 妹姫は姉姫よりも自由な存在なんだろう。 姉姫様のご意思を尊重するのは世間の一部が言うほど悪いことではないと思った。 それからこの言葉をたぶん私は一生覚えているだろう、 小田急刺傷事件の時に一番の被害者の女子大生を止血して手を握り続けた 同じ20代の看護師さんの文春のインタビュー記事で、 「(被害者の女子大生)のことをずっと、ずっと思っています」と この言葉は無限の癒しを大多数の人間に与える。無償の言葉だから。 信じられないような理不尽にさらされ命すらも危うくされたときに 見ず知らずの
はてなの話題に「婿殿が奨学金借金持ち!」との増田があって、 増田世代に親がおりますかね?と若干疑問であるが、 増田の立場で考えれば、 「子供に「奨学金」という名ばかりの借金を背負わせて海外旅行に行くような親に 娘がどんな目に合わされるか!」との悲鳴を思わず上げたんじゃないのかな。 そりゃー「俺が出した学費は相手家族の海外旅行費か!」と言いたくなる気もわかる。 普通の親なら、よほどのことがない限り子供に「奨学金借金」はさせない。 利用させても、いざというときにすべてを返済できる「虎の子」を隠しておく。 そのあたりを常識として押さえていない情報弱者がネットのいい加減な話に踊らされて 借りるだけ借りてしまって後で返済に苦労する。 しかし「奨学金があるから仕事が辞められない!」と悲劇的にネットでは叫ぶが 奨学金の重しがあるからこそ、仕事をやめてふらふらせずに済むの面もあるので ちょっとしたことです
ブロガーや作家やライターとの付き合いはない。お誘いもない。単純に嫌われているのかもしれない。営業面からいえば、コネは多くあったほうがいい。だが、そういった付き合いが「書く」という行為のプラスになるだろうか。あったとしても「あの人が頑張っているから僕も頑張ろう」くらいの気分の問題だ。付き合いによって「書くこと」の質が劇的に向上することはない。 なぜなら、「書く」という行為が、個人的で孤独な営みであり、自分と向き合うことによってのみ、なされるからだ。付き合いによって文章がうまくなるという幻想は捨てよう。持つべきものは、友との付き合いではない。自分と向き合う時間だ。 もちろん、仕事に関連のある人間とワイワイ話すほうが楽しかったり、直接的な刺激を受けられたり、モチベーションが高まったり……という側面は、少なからずあるかもしれない。でも、その仲間との集まりを終え、帰宅した後。アクションをなんにも起こ
と、3点リーダー以上を使って悲しみを表現してみる。 お洋服は使わなくてもどこかしら古びるもので、 昨年に続き、出ていく機会がなかったら、微妙に劣化してしまった服を おばはんは泣く泣く処分に出そうとしている。 よく着ているうちに劣化しているのかどうかも分からなくなった服があって この度しげしげと眺めると、自分の肉体も劣化しているので 劣化した服を着ると相乗効果で「、、、、、、、、」エンドレス。 ここで、割り切ってせめて古い人間は新しい服を!と思い切ればよいんだけど、 古い人間はぐずぐずするのよね。(涙) さすがに夏の服は傷みが目立ったりして、気に入っていたのに、 今年風を通すことがなかったものは色あせて来年までは無理か、 と思い切ろうとしている。 還暦過ぎると物が捨てられなくなる、と聞くしな。 私はコートと下のワンピースがついになったスタイルが好きだが、 処分、待ったなし!のものの後継品が今
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