先日、26歳の男性から、相談に乗ってもらえないかと連絡をもらいました。 ぼくの本を読んでくださった方で、いま、アルバイトをしながら就職活動をしているけれど、思うところあって就職以外の生き方を模索している、ぼくの紀行文やインタビューを読むかぎり、自分と重なるところが多くあるように感じ親近感が沸いて連絡した、とのことでした。 数週間後、この方と会いました。 話を聞くと、彼は大学院の修士課程修了後、一度会社に勤めたもののほどなくやめて、いま次の就職先を探している。しかし本当は就職する以外に具体的にやりたいことがあり、その道に進みたいと思っている。ただ、なかなか思い切って踏み出せない、また両親にも反対されている、という状況のようでした。 もちろん状況は違うとはいえ、自分が2003年に旅に出たときも同じく、修士課程を終えたばかりの26歳で、また、確かに彼が言うように、考え方にも似たようなところ
うすうす、気づいていた。女たちが、なにか、おかしい、ということ。いいたくないけど、フェミニズムと某大手新聞社系週刊誌にあおられた「女の自己実現イデオロギー」と、家事と子育てと人の面倒をみることへの忌避。もちろん女をいじめたり、女に暴力を振るったり、女に都合の悪いことを全部押しつけたりしていいはずはない。どんなイデオロギーの持ち主だろうが、そんなことをする人は、単なる人でなしである。そういう話ではない。 近代社会の作り上げた「公的」な部分に、つまりは、政治とか経済とか、そういう部分で、選挙権を持ったり、経済活動に参加していくことは、もちろん大切なことである。しかし、だからといって、すべての女性が(実は、人間は、だが)その公的な部分で社会的評価を受けなければならない、とか社会的評価なしには生きている価値がないとか、そんなはずはないのだが、実は、みごとにそうなっている。 恋愛をして、男と一緒にす
自分と「おもしろい」をつなげる 三島チームをまとめながら、思い入れのある特集を実現していく。そうした一連の動きをご自身はどうとらえられているのですか? 河野そもそも、特集のテーマというのは、自分が知りたいと思っていることと結び付いている必要があると思います。「知りたい、確かめたい」と思っていることだったら、どこまでもやろうという気持ちがついていくし、出来上がったものに対しても責任が負える。仮に売れなかったとしても、自分の中で何がまずかったか、を考えるきっかけになります。 それを含めて、全部が楽しい作業になると思うんですよ。 だから、いまは『考える人』という器を使いながら、自分が読者とともに考えたいと思うことをやらせてもらっています。幸い専従の2人も兼務の人たちも、それに対してとても協力的ですので。 三島すごい! 自分自身としっかりつながった特集が生まれている根底には、やはり、メール
嫌な奴とは仕事しない 三島『考える人』の編集長になられた経緯を教えていただけますか。 『考える人』2010年夏号(新潮社) 河野私の前の編集長、つまり創刊編集長は、いま小説家としても活躍している松家仁之(まさし)さんです。その松家さんが退社の意思表明をしたのが2010年の始め。新潮社のある役員が私のところを訪ねてきて、「後任になってもらえないか」という話になりました。松家さんのフィナーレである「村上春樹ロングインタビュー」号(2010年夏号)が発売されたのは、すでに私が編集長を引き継いだ後でした。 (編集部註:松家仁之さんには、ミシマガの「本屋さんと私」というコーナーに以前ご登場いただいています。こちらもあわせてどうぞ!) 三島そうだったんですね。すぐに、編集部にはとけこめましたか? 河野『考える人』という雑誌は、編集部をどっしりと構えるのではなくて、編集長以外は兼任のメンバーによって構
作家、映画監督、CMプランナー、詩の朗読やラジオのパーソナリティなど、様々な分野にまたがり活動をされている、ジャンルのない仕事人・大宮エリーさん。 最新エッセイ『なんとか生きてますッ』には、そんな大宮さんの身に起こった災難や不思議な出来事、日々のあれこれが描かれています。なんと言っても帯文は、「知らない人の膝にはもう乗りません」(!)。前作『生きるコント』『生きるコント2』に勝るとも劣らぬ面白さに爆笑必至。とともに、全体を包むのは、なんとも言えないあたたかさ。「明日もがんばるかぁ」と思える力に満ちています。 今回はそんなあらゆる分野でご活躍の大宮エリーさんに、ものづくりのお話や言葉にまつわる仕事について、お話を伺ってきたのです、が...「武器なんて何もない」「やりたいことなんてない」「今日がまた来るのかと思うとへこむ」って、ええ、どういうこと!? いつでも丸裸、全力で傷だらけ。そんな大宮
対米従属によるふたつの成功体験 日本の国家戦略は戦後一貫しています。それは「対米従属を通じての対米自立」というものです。「対米従属を通じての対米自立」は、敗戦後の日本においては「それしかない選択肢」であり、政策判断としては合理的なものでした。 実際に1945年から6年間GHQの支配に全面的に服従した結果、わが国は51年のサンフランシスコ講和条約で主権を回復しました。講和条約は歴史上珍しいほど敗戦国に対して寛大な講和条約でした。対米従属によって戦後日本はまずかたちの上では主権を回復した。これが最初の成功事例でした。 成功はさらに続きます。朝鮮戦争、ベトナム戦争においてアメリカの後方支援に徹したことによって、72年には沖縄の施政権が返還されました。国土の一部が回復したわけです。 つまり、45年からの対米従属は、51年の講和条約と72年の沖縄返還という二つの成功体験を日本人にもたらしたのです
もっとも弱い人間が集団のパフォーマンスを高める 僕は神戸女学院大学で、2011年まで教鞭をとっていました。教師をしていて思うのですが、集団のパフォーマンスを高めるためには、成員ひとりひとりに多様性が必要であるということを痛感しました。教員というのは個人技でつとまるものではありません。他の多くの教員たちの共同作業ではじめて教育事業は成立する。 教育の主体は「教師団」という集団です。だから、教育のアウトカムを高めようと思ったら、どうすれば集団のパフォーマンスが向上するのか、どういう個性を組み合わせる最高の力を発揮するようになるのかについての技術的知見が必要になります。 黒澤明の『七人の侍』という映画を僕はすぐれた組織論として観てきました。集団を効率的に機能させる最小数がだいたい6人か7人です。これは「グループで仕事をする」映画に共通しています。『荒野の七人』も『黄金の七人』も『ナバロンの要塞
銭湯経済、いよいよ始まる――。 本年6月末に、ミシマ社京都オフィスは引っ越ししました。 城陽オフィスから数えて、3カ所目です。一軒家から始まった関西での出版活動は、1年3カ月のワンルームでの活動を経て、ふたたび一軒家にたどりついたわけです。 それも今回はたんなる一軒家ではありません。 鴨川沿いすぐ、一階に3部屋、二階に4部屋、さらに屋根裏部屋付き・・・と書けば聞こえはいいですが、この情報を仔細に見ていくと、こんな情報が加わることになります。築年数不詳、あちこちに隠し扉、やたら長細いトイレ(ノックをされても便座から手はけっして届かない)、風呂場は大きな建物と不釣り合いなくらい激小、大股を開かないと登れない高い位置にあるベランダ、間違って開くと一階へ真っ逆さまの扉・・・。 訪れた方々からは「忍者屋敷」「ここには、なんかいるね」など、いろんなお言葉を頂戴しています。とにかくネタには困ら
何を失っていたのかに気づいていなかった 平川『消費をやめる』のゲラができた頃に、この「隣町珈琲」ができて。そもそも会社は秋葉原にあったんだけど、こっちに持ってきちゃったの。そうするとすべてが変わるのね。職住近接で、社員も徒歩だったり自転車で通ってくる。 西村秋葉原は戦場ですよね。 平川そうですね。たまたま一週間くらい前に秋葉原に行く用事があって、なにが違うのかなと思ったら、とにかく音が違うんですよ。ここは昼間ほとんど音がしないんです。ちょうど私たちのオフィスに接して公園があって、昼間は子どもたちの遊び声が聞こえてくるのね。ところが秋葉原で竹橋のほうから歩いていくと、自動車のガーッという音が聞こえるわけ。いた当時は気づかなかったんですよ。こんなに音が違うのかと。ここは人間の住むところじゃないぞと。 西村そこまで言う(笑)。 平川こんなところにいちゃいけないと(笑)。ま、引っ越してきただけなん
ひとことでいえば、それ(小商い)は「定常経済」を実践する会社ということで、右肩上がりの時代が終わった、その次のフェーズにもっともフィットした会社形態だということになります。小商いとは会社の規模ではなく、常に右肩上がりを宿命づけられ、売上拡大という「株主の声」に追いまくられている状態から脱して、自分たちが本当にやりたいこと、生きることと同義であるような働き方を見つけ出せという「天の声」に従う会社経営のことだったのです。 ――はじめにより 本書をつくっているあいだ、わたしは、自分がお話ししたとおりに、自分の会社を小商いスタイルに改変し、次に自分の生活を変えようと思い立ちました。 わたしが生まれ育った池上線沿線に、仕事場も、遊びの場も戻してみようと思い立ち、すぐに実践することになりました。 そして間もなく、朝起きると、生活が一変していることに気がついたのです。 (中略) 朝ゆっくりと起き、
*「世代と時代」編はこちら 「脳も身体も敏感にしておきたい」(後藤) 光嶋この3人は同世代ということのほかに、「ものづくり」を仕事にしているということが共通していることでもありますよね。建築の場合は、その場所やクライアントがものづくりのきっかけになるのですが、後藤さんはいかがですか? 音楽って、無から有をつくり出すので、それがすごく気になって。 後藤音楽にはビシッと決まった設計図があるわけではないので、そこはすこし建築とは違うところかもしれないですね。「こんな家になるかな」と思って作ってると、「あれ?」って時々はみ出るんです。最初とちょっと間取りが違う。でも音楽って、その場その場で判断が変わっていいというか、ぶれちゃっていいんですよ、たぶん。 三島それおもしろいですね。 後藤自分のここ何年かの考え方としては、「音楽だけ聞いてちゃだめだ」と思ってやってます。本も読むし、映画も好きだし、美術館
「怒りって、抱えてますか?」(光嶋) 光嶋先日ふと「なにかモノをつくるには、怒りが必要だ」という言葉を耳にして、「僕はどうかなぁ」と考えることがありました。自分自身で言うならば、阪神淡路大震災や同時多発テロ、そして3.11がおき、怒りというか建築や都市に対してある種の絶望みたいなものを感じたんですよね。けれど、それらを通して感じたものの根底にあるのが、怒りか絶望かはわからない。音楽や出版においても、怒りって抱えているものですか? 後藤うーん、難しいですけどね。ある種の無力感は前提にあります。たとえば、ジョン・レノンが「イマジン」をつくっても戦争はなくならなかった。そういう意味では音楽が本当に世界を変えるのかというと絶望を感じてもいるし、その一方で、ジョン・レノンによって人生がかわった人もたくさんいる。でも・・・なんか僕は、「怒りから生まれる」なんて断言されると、それ自体に抗いたくなりますね
我慢するくらいなら、寝てください! 小笠原近藤さん、さきほどお昼を頼むときに「白ごはん少なめ」とおっしゃっていましたが、何かあるんですか? 近藤ご飯が多いと眠たくなっちゃうんですよ。14時からのミーティングとか、頭働かなくなってしまって・・・。 矢萩なんで白ごはんが眠い原因だって気がついたんですか? 近藤若いデザイナーの子が、白ごはんを抜いてたんです。「なんで抜いてるの?」って聞いたら「眠くなるからです」と。半信半疑で抜いてみたら、本当に眠たくなくて。 小笠原これか! みたいな(笑)。 近藤昔は白ごはんもいっぱい食べてたから、お昼休みによく寝てました。それに、うちは寝てる人けっこう多いんですよ。 矢萩え! いいなあ。 近藤眠いの我慢して働くくらいだったら、20分くらい寝てからしたほうがすごく頭が冴えるので、お昼寝はけっこう推奨していますね。なんだったら昼休みだけじゃなくて、業務時間中も寝
こんにちは、アルテスパブリッシングの鈴木です。 先月の北海道から一気に南に下って、今月は前々からリクエストされていた沖縄の音楽をいくつか紹介してみようと思います。 安室奈美恵を筆頭にアイドルからパンク・バンドまで、沖縄からは数多くのスターが生まれていますが、ここで聴いていただくのは「島唄」と呼ばれる民謡とその系譜に連なる音楽です。 まず最初に、とても美しいメロディーをもつ名曲「イラヨイ月夜浜」を、大島保克(やすかつ)さんの歌で聴いてください。 ♪「イラヨイ月夜浜」 月明かりに照らされる浜辺で歌や踊りに興じる光景を歌ったこの歌には、長いあいだ人々に歌い継がれてきたかのような風格がありますが、詞を書いたのは大島さん本人で(20年ほど前の発表当時、まだ20代の前半だったはず)、作曲したのは人気グループ、BEGINの比嘉栄昇です。 初めて聴いたとき、きれいなメロディーと、「イラヨイマーヌ」とい
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