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ブックマーク / kamiyakenkyujo.hatenablog.com (4)

  • 朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』 - 紙屋研究所

    朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』について書きたいと思いながら1年以上たってしまった。 書けないなら書けないでもいいじゃん、という声も自分の中から聞こえてくるけども、アウトプットしなければやがて消えていってしまう。いろいろも読んでいろいろ考えたことが消えてしまう。それは俺としては惜しい。社会的損失かどうかは別にして。 『お慕い申し上げます』は、寺の話である。 寺の跡取りをどうするか、という話も一つのテーマで、そこから、寺院というシステムが将来存続できるのかという広がりに繋がっている。 もう一つは、仏教そのものがテーマである。寺院が存続していけるのか、ということは信者と集金のシステムとして存続できるかという問題であるが、その中核にあるのは、来仏教という宗教がこれからも必要とされ続けるのか、というテーマでもある。 佐伯清玄(さえき・せいげん)という29歳の男が副住職をつとめる祥願寺という寺に、

    朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』 - 紙屋研究所
  • 安斎育郎『増補改訂版 家族で語る食卓の放射能汚染』 - 紙屋研究所

    学習会でとまどう人びと 福島原発の事故以来、左翼組織の中で、なぜかドシロウトのぼくが原発や放射線被害の問題の学習会のチューターをつとめることがある。もちろん専門家ではないので問題の骨格を知るための入門という位置づけだ。 その学習会の場で、ICRP(国際放射線防護委員会)の見解を紹介し、低線量の放射線であってもガンになる確率はあるものとみなされる、としゃべる。安全基準というものは存在せず、「がまん量」なのだ、という話である。 たとえば共産党の機関紙誌にも放射線問題の専門家としてしばしば登場する野口邦和(日大学専任講師)の見解を紹介する。 暫定規制値はあくまでも事故時の緊急対応措置だということを理解する必要がある。メディアは安全基準などという言い方をしているが、安全基準ではない。被曝線量は低ければ低いほどよいというのが通説だ。暫定規制値は、いわば“がまん基準”であり、放射性核種が大規模に漏れ

    安斎育郎『増補改訂版 家族で語る食卓の放射能汚染』 - 紙屋研究所
  • 水谷フーカ『14歳の恋』 - 紙屋研究所

    14歳の恋というタイトルに何を期待してこのマンガを買うのか。 たとえば浅野いにお『うみべの女の子』だと、中学生がはずみで不器用なセックスをする描写を読むことで、大人がセックスに対して必ずいくらかはもっている「べ馴れた」感覚をいっさい排除して、セックスの一番なまなましい部分、ぼくがセックスに抱いている原初的な憧憬のひとつを得ようとするのである。 あるいは、かがみふみをの中高生の恋愛シリーズのように、手がふれあったり、何げない仕草に猛烈に相手を意識してしまう自分の心の動きを、微分しつくした描写を味わうことで、今はもう失われてしまった「恋愛初期の心の興奮」を再現しようとする期待で読む場合もある。たとえ片思いであってもこの感覚はぼく自身が体験したことがあるものだ。 他にもいろんなバリエーションがある。 ただし、男性向けの漫画に限る。 現在進行形の14歳(前後)の恋愛を描く少女漫画の場合、驚くほど

    水谷フーカ『14歳の恋』 - 紙屋研究所
  • 『ベルベット・キス』『義父と先生と』『ずるいカラダ』『S彼×禁断』『快楽電流』 - 紙屋研究所

    以前、二十人ほどの作家の書いた官能競作集を話題にしたことがある。知人が、「それじゃあ、あなたが面白いと思ったやつを一つか二つ見せてくれる?」と言うので、後日、私がもっとも“感じた”二編を送ったところ、彼女が笑いながら言ったものだ。「あなたのセクシュアリティがよくわかったわ」 セクシュアリティに関する分析にはそういうところがある。分析される対象よりも、かえって分析するこちら側のセクシュアリティをあぶり出してしまうところ……。(藤由香里『快楽電流』p.137) ぼくがマンガを語る手法というのはいわゆる「自分語り」に近い。しかし自分の中には必ず社会が反映しているし、普遍性が横たわっている。ヘーゲルのいうところの「特殊は普遍である」。マンガを読んだときの自分の感覚から出発することを「自分語り」と蔑み、それへの反動として「客観的」な論じ方を用意しようとマンガ評論はあがき続け、表現論的な批評・研究の

    『ベルベット・キス』『義父と先生と』『ずるいカラダ』『S彼×禁断』『快楽電流』 - 紙屋研究所
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