いまでこそ新聞記者をしていますが、その昔、「原子力ムラ」のど真ん中にいました。しかも、勤務先は東京電力の福島第一原発でした。 3.11――。大津波が来ました。翌日、原発が爆発しました。大切な家族や故郷を失った人たちが数えきれません。歴史に残る大惨事を、私の目線でつづります。 2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災の記憶は、東京・霞が関の経済産業省10階にある記者クラブから始まる。 ソファに腰掛け、午前中に取材した金融取引所の資料を眺めていた。「取引所より、地震被害の取材のほうが先か」。今にして思えば、最初は悠長に構えていた。 30分後。経産省は、太平洋沿いのほとんどの原発が停止したと発表した。福島の原発を襲う大津波の存在は、知るよしもなかった。 午後4時50分。省内で緊急対策会議が開かれた。経済産業相の海江田万里が幹部らに「引き続き確認を」と指示した。 幹部だけに配られた資料があ