出師の巻と三国志に関するshiromitsuのブックマーク (49)

  • 吉川『三国志』の考察 第278話「出師の表(すいしのひょう)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は、魏(ぎ)の要職を占めるまでになった司馬懿(しばい)を警戒していた。 その司馬懿が曹叡(そうえい)に免官され、故郷へ帰されたと聞くや、諸葛亮は劉禅(りゅうぜん)に「出師(すいし)の表」を奉呈。宿願の北伐を断行し、自ら大軍をひきいて成都(せいと)を発つ。 第278話の展開とポイント (01)成都 丞相府(じょうしょうふ) 馬謖(ばしょく)は、魏における司馬懿の立場を自己分析してみせたうえ、諸葛亮に一計を献ずる。 「司馬懿は自ら封を乞うて西涼州(せいりょうしゅう)へ着任しました。明らかに彼の心には、魏の中央から身を避けたいものがあるのでしょう。当然、魏の重臣どもはその行動を気味悪く思い、狐疑していることも確かです」 「そこで、司馬懿に謀反の兆しありと、世上へ流布させ、かつ偽りの回文を諸国へ放てば、魏の中央はたちまち惑い、司馬懿を殺すか、官職を褫奪(ちだつ。奪うこと)し

    吉川『三国志』の考察 第278話「出師の表(すいしのひょう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第277話「鹿と魏太子(しかとぎたいし)」

    魏(ぎ)の皇太子の曹叡(そうえい)は15歳になり、その英才は皆の注目を集めていた。彼は父の曹丕(そうひ)と狩りに出たとき、母鹿を亡くした子鹿をどうしても殺せず、思いやりのある一面を見せる。 黄初(こうしょ)7(226)年5月、曹丕が40歳で崩ずると曹叡が帝位を継ぎ、曹真(そうしん)・陳群(ちんぐん。陳羣)・司馬懿(しばい)を中心に、新帝を補佐する体制が固められた。 第277話の展開とポイント (01)成都(せいと) 成都の上下は沸き返るような歓呼である。その日、劉禅(りゅうぜん)も鸞駕(らんが。天子〈てんし〉の車)に召され、宮門30里の外まで諸葛亮(しょかつりょう)と三軍を出迎えた。 鸞駕の内に諸葛亮の座を分け、同車相並んで、成都宮の華陽門(かようもん)を入る。全市の民は天にも響く喜びを上げ、宮中の百楼千閣は一時に音楽を奏し、紫雲金城の上に降りるかと思われた。 だが、諸葛亮は自己の功を忘れ

    吉川『三国志』の考察 第277話「鹿と魏太子(しかとぎたいし)」
  • 吉川『三国志』の考察 第276話「王風万里(おうふうばんり)」

    盤蛇谷(ばんだこく)へ誘い込み、兀突骨(ごつとつこつ)と配下の藤甲軍(とうこうぐん)を焼き尽くした諸葛亮(しょかつりょう)。 ななたび孟獲(もうかく)を捕らえ、ななたび放そうとするも、彼はいつものように立ち去らず、男泣きに許しを乞う。ついに諸葛亮の思いが通じたのだった。 第276話の展開とポイント (01)諸葛亮の営 その夜、諸葛亮は諸将と会した末に、今回の盤蛇谷における計(はかりごと)などについて、兵法講義にも似た打ち明け話を聞かせる。諸将はみな、丞相(じょうしょう)の神知測るべからずと、三嘆して拝服した。 翌日、諸葛亮は営内の檻房(かんぼう)から、孟獲や祝融(しゅくゆう)、帯来(たいらい)や孟優(もうゆう)に至るまで数珠つなぎに引き出し、憫然(びんぜん)と言った。 「さてさて、性なき者にはついに天日の愛も通らぬものか。人とも思えぬ輩(やから)、見る目も恥ず。早く解いて山野へ帰せ」 そ

    吉川『三国志』の考察 第276話「王風万里(おうふうばんり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第275話「戦車と地雷(せんしゃとじらい)」

    拠としていた銀坑山(ぎんこうざん)を失い、むたび捕らえられ、むたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。義弟の帯来(たいらい)の進言に従い、今度は烏戈国(うかこく)の兀突骨(ごつとつこつ)を頼る。 かの地の藤甲軍(とうこうぐ... 兀突骨は敵の脆(もろ)さを疑いだし、追撃の手を緩める。すると魏延は急に気勢を上げ、新手を加えて逆襲を試みた。 魏延自身が先頭を進み、兀突骨に一騎討ちを挑む。そうしたうえで矛先から逃げ走ったので、兀突骨も「今こそ」と、拍車をかけて魏延を追う。 誘導作戦は難しい。逃げすぎても疑われる。魏延は折々に引き返して敵を罵った。そうしてはまた虚勢を示し、ついに15日の間、15か所の白旗をたどり、逃げに逃げる。 ここに至っては猜疑(さいぎ)深い兀突骨も、自身の武勲に思い上がらざるを得ない。部下を顧みて大象の上から豪語した。 上げた戦果と分捕った酒に酔い、すさまじ

    吉川『三国志』の考察 第275話「戦車と地雷(せんしゃとじらい)」
  • 吉川『三国志』の考察 第274話「藤甲蛮(とうこうばん)」

    拠としていた銀坑山(ぎんこうざん)を失い、むたび捕らえられ、むたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。義弟の帯来(たいらい)の進言に従い、今度は烏戈国(うかこく)の兀突骨(ごつとつこつ)を頼る。 かの地の藤甲軍(とうこうぐん)は不敗の精鋭として知られ、実際に刃(やいば)を交えた魏延(ぎえん)から話を聞くと、諸葛亮は付近の地勢を見て回り、馬岱(ばたい)にある秘策を授けた。 第274話の展開とポイント (01)銀坑山の郊外 すでに国なく、王宮もなく、行く当てもない孟獲は、悄然として周囲の者に諮る。 「どこに落ち着いて、再挙を図ろうか?」 彼のの弟である帯来が言った。 「ここから東南(たつみ)のほうへ700里行くと烏戈国があります。国王は兀突骨という者です」 「五穀を(は)まず、火せず、猛獣蛇魚をい、身には鱗(うろこ)が生えているとか聞きます。また彼の手下には、藤甲軍と

    吉川『三国志』の考察 第274話「藤甲蛮(とうこうばん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第273話「歩く木獣(あるくもくじゅう)」

    孟獲(もうかく)の求めに応じ、八納洞(はちのうどう)の木鹿王(もくろくおう)が銀坑山(ぎんこうざん)に到着する。彼のひきいる3万の軍勢には、1千頭近くの猛獣も交じっていた。 木鹿軍と激突した蜀軍(しょくぐん)は総崩れになるも、この様子を聞いた諸葛亮(しょかつりょう)は笑い、あらかじめ用意していた20余輛(りょう)の車を引いてこさせる。 第273話の展開とポイント (01)銀坑山 隣国への使いから帰った帯来(たいらい)が告げた。 「我々の申し入れを承知し、数日の間に、木鹿王は自国の軍勢をひきいて来ましょう。木鹿軍が来れば、蜀軍などは木っ端微塵(こっぱみじん)です」 帯来の姉である祝融(しゅくゆう)も、その夫である孟獲も、今はそれだけを一縷(いちる)の希望につないでいたところである。やがて八納洞の木鹿が数万の兵を連れ、市門に着くと聞くや、孟獲と祝融は王宮の門を出て迎えた。 木鹿大王は白象に乗っ

    吉川『三国志』の考察 第273話「歩く木獣(あるくもくじゅう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第272話「女傑(じょけつ)」

    ごたび捕らえられ、ごたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。とうとう蛮都の銀坑山(ぎんこうざん)まで戻り、八納洞長(はちのうどうちょう)の木鹿王(もくろくおう)に協力を求めるべく、義弟の帯来(たいらい)を遣わす。 だが、三江城(さんこうじょう)に置いた朶思大王(だしだいおう)の敗報が伝わると、孟獲は焦りの色を濃くし、一族を集めて評議を開く。そのとき屛風(びょうぶ)の陰から、の祝融(しゅくゆう)の笑う声が聞こえてきた。彼女が言うには――。 第272話の展開とポイント (01)禿龍洞(とくりょうどう) 諸葛亮の営 諸葛亮は五度(ごたび)孟獲を放したが、放つに際して言った。 「汝(なんじ)の好む土地で、汝の望む条件で、さらに一戦してやろう。しかし今度は、汝の九族まで滅ぼすかもしれないぞ。心して戦えよ」 弟の孟優(もうゆう)と朶思大王も同時に許す。3人は馬をもらい、恥ずるがごと

    吉川『三国志』の考察 第272話「女傑(じょけつ)」
  • 吉川『三国志』の考察 第271話「蛮娘の踊り(ばんじょうのおどり)」

    万安渓(ばんあんけい)の孟節(もうせつ)のおかげで、泉の毒から回復した蜀軍(しょくぐん)。目指す禿龍洞(とくりょうどう)に近づくが、朶思大王(だしだいおう)も孟獲(もうかく)兄弟も、この地まで敵軍がやってきた事実を受け入れられない。 そこへ銀冶洞(ぎんやどう)の楊鋒(ようほう)一族が、3万余の援軍をひきいて合流。みな喜んで酒宴を催すも、楊鋒が余興に披露した蛮娘たちの踊りの最中に……。 第271話の展開とポイント (01)万安渓 海を行くような青さと暗さ、また果てない深林と沢道をたどるうちに忽然(こつぜん)、天空から虹のごとき日がこぼれた。広やかな山懐の谷である。諸葛亮(しょかつりょう)は「おお、万安渓はここに違いない」と馬を下りて、隠士の家を探させた。 (02)万安渓 万安隠者(ばんあんいんじゃ。孟節)の山荘 やがて山荘に至ると、長松大柏(たいはく)は森々と屋を覆い、南国の茂竹や椰子樹(ヤ

    吉川『三国志』の考察 第271話「蛮娘の踊り(ばんじょうのおどり)」
  • 吉川『三国志』の考察 第270話「毒泉(どくせん)」

    よたび自陣に戻った孟獲(もうかく)は、弟の孟優(もうゆう)と相談し、南蛮国(なんばんこく)の知恵者として名高い朶思王(だしおう)の助力を仰ぐ。 朶思王の治める禿龍洞(とくりょうどう)へ向かった蜀軍(しょくぐん)は、強烈な毒泉の影響で死傷者を出す。諸葛亮(しょかつりょう)も困り果てたが、馬援(ばえん)を祭る廟(びょう)に祈りを捧げて窮状を訴えたところ、ひとりの老人が現れる。 第270話の展開とポイント (01)孟獲の営 孟獲は自陣に帰ったものの、数日はぼんやりと考え込んでばかりいる。その様子を見て弟の孟優が言った。 「兄貴。とても孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)にはかなわないから、いっそ降参したらどうかね?」 これを聞くと俄然(がぜん)、孟獲は魂が入ったように目をむいて怒る。そしてこう言った。 「俺が四度も生け捕られたのは計略に負けたのだ。だから今度は、俺のほうから孔明を計略にかけてやろう

    吉川『三国志』の考察 第270話「毒泉(どくせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第269話「王風羽扇(おうふううせん)」

    みたび捕らえられ、みたび諸葛亮(しょかつりょう)に放された孟獲(もうかく)。さすがに懲りて蛮界の中心まで引くと、各地の洞長に呼びかけ、入念な反撃の準備を整える。 しかし、西洱河(せいじが)両岸における戦いで諸葛亮の計略にはまり、よたび捕らえられ、よたび解放されてしまう。 第269話の展開とポイント (01)その後の孟獲 蛮界幾千里、広さの果ても知れない。蜀(しょく)の大軍は瀘水(ろすい)も後ろにして、さらに前進を続けていたが、幾十日も敵影を見なかった。 孟獲は深く懲りたとみえる。蛮国の中心へ遠く退き、入念に再起を図っていた。そこから蛮邦八境九十三甸(でん)の各洞長に向かって檄(げき)を飛ばす。使いを遣って金銀や栄位を贈り、協力して蜀軍を撃退しようと呼びかけた。 ★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき

    吉川『三国志』の考察 第269話「王風羽扇(おうふううせん)」
  • 吉川『三国志』の考察 第268話「孔明・三擒三放の事(こうめい・さんきんさんほうのこと)」

    味方の董荼奴(とうとぬ)に捕らえられた孟獲(もうかく)だったが、諸葛亮(しょかつりょう)は再び解放する。 そのうち弟の孟優(もうゆう)が、銀坑山(ぎんこうざん)から援軍をひきいて駆けつけると孟獲は大喜び。ふたりでひと晩じゅう策を練り、翌日には孟優が蜀陣(しょくじん)を訪ねて降伏を申し入れた。だが、孟獲らの意図は諸葛亮に看破されていて――。 第268話の展開とポイント (01)瀘水(ろすい)の南岸 孟獲の山城 孟獲は、山城に帰ると諸洞の蛮将を呼び集め、例によって怪気炎を吐き散らす。 「今日も孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に会ってきた。あいつは俺が縛られていっても殺すことができないのだ。なぜかと言えば、俺は不死身だからな。刃をかみ折り、奴らの陣所を蹴破って帰るぐらいな芸当は朝飯前のことだ」 そして皆で手分けして、董荼奴と阿会喃(あかいなん)の首を持ってくるよう命じた。 ★『三国志演義(6)』

    吉川『三国志』の考察 第268話「孔明・三擒三放の事(こうめい・さんきんさんほうのこと)」
  • 吉川『三国志』の考察 第267話「心縛(しんばく)」

    馬岱(ばたい)に糧道が遮断されたと知った孟獲(もうかく)は、忙牙長(ぼうがちょう)を差し向けるも、あえなく討ち死に。続けて董荼奴(とうとぬ)を差し向けたが、彼は先に諸葛亮(しょかつりょう)に助命された恩を感じており、まともに戦わなかった。 帰還した董荼奴は、孟獲から百杖(ひゃくじょう)の刑打を加えられて面目を失う。そこで配下の者と相談し、昼寝中の孟獲を捕らえて蜀陣(しょくじん)へ赴く。ところが諸葛亮は――。 第267話の展開とポイント (01)瀘水(ろすい)の南岸 孟獲の営 蜀の馬岱へ差し向けた忙牙長が、簡単に返り討ちにされたと聞き、疑いを抱く孟獲。しかし夜になると、土人が忙牙長の首を拾って届けてきた。 孟獲は討たれた忙牙長に代わり、馬岱の首を取ってくる者を募る。董荼奴が名乗りを上げると、孟獲は5千の勢を付けて励まし、夾山(きょうざん)へ向かわせた。 ★『三国志演義(6)』(井波律子〈い

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  • 吉川『三国志』の考察 第266話「輸血路(ゆけつろ)」

    趙雲(ちょううん)に捕らえられた孟獲(もうかく)だったが、諸葛亮(しょかつりょう)の判断で解放される。 自陣に戻った孟獲は作戦を変更し、瀘水(ろすい)の対岸に頑丈な防寨(ぼうさい)を築く。これを見た諸葛亮は、ちょうど成都(せいと)から到着した馬岱(ばたい)に命じ、蛮軍(ばんぐん)の唯一の糧道を断とうとする。 第266話の展開とポイント (01)孟獲の営 孟獲が生きて帰ったと聞くと、諸方に隠れていた敗軍の蛮将や蛮卒は、たちまち蝟集(いしゅう)して彼を取り巻いた。 孟獲は事もなげに笑ってみせ、部下たちに言う。 「運悪く難所に行き詰まって、一度は蜀軍(しょくぐん)に生け捕られたが、夜に入って檻(おり)を破り、番兵を10余人ほど打ち殺してきたのさ」 「すると別の一隊の軍馬が来て、俺の道を遮ったが、多寡の知れた中国兵。八方へ蹴散らした末に馬を奪い、帰ってきたというわけだ。ははは。おかげで蜀軍の内部

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  • 吉川『三国志』の考察 第265話「孟獲(もうかく)」

    進軍を続ける蜀軍(しょくぐん)に対し、ついに孟獲自身も王平(おうへい)の部隊と遭遇して一戦に及ぶ。 兵法を知る蜀軍を相手に、南蛮勢(なんばんぜい)は組織的な反撃ができないまま四散。錦帯山(きんたいざん)へ逃げた孟獲も、趙雲(ちょううん)の手で難なく捕らえられてしまう。 第265話の展開とポイント (01)反撃に出る孟獲 南蛮国(なんばんこく)における「洞」は寨(とりで)の意味であり、「洞の元帥」とはその群主をいう。 いま国王の孟獲は、部下の三洞の元帥がみな諸葛亮(しょかつりょう)に生け捕られ、その軍勢も大半は討たれたと聞き、俄然(がぜん)、形相を変えた。この孟獲という者の勢威と地位とは、南方の蛮界の内では最も強大なものらしい。 彼がひきいてきた直属の軍隊は、いわゆる蛮社(蛮国)の黒い猛者どもだが、弓馬剣槍(けんそう)を輝かせ、怪奇な物の具を身に着け、赤幡(せきばん。赤色の幟〈のぼり〉)や紅

    吉川『三国志』の考察 第265話「孟獲(もうかく)」
  • 吉川『三国志』の考察 第264話「南方指掌図(なんぽうししょうず)」

    諸葛亮(しょかつりょう)は益州(えきしゅう)南部の諸郡を平定し、永昌(えいしょう)で孤軍奮闘していた太守(たいしゅ)の王伉(おうこう)と対面する。 王伉から呂凱(りょがい)を紹介された諸葛亮は、さっそく蛮国征伐についての意見を聴く。このとき呂凱は一枚の絵図を献ずるが、これは蜀軍(しょくぐん)にとって何物にも代えがたい宝となった。 第264話の展開とポイント (01)永昌 益州の平定により、蜀蛮(しょくばん)の境を乱していた諸郡の不良太守も、ここにまったくその跡を絶つ。したがって、諸葛亮が来るまで反賊の中に孤立していた永昌郡の囲みも、自ら解けた。 太守の王伉は感涙に顔を濡らしながら、城門を開いて蜀軍を迎え入れる。諸葛亮は王伉の孤忠をたたえ、同時にこうも尋ねた。 「ご辺(きみ)には良い家臣がおると思われる。そも、誰がもっぱら力になって、この小城をよく守らせたのであるか?」 王伉が呂凱のことを話

    吉川『三国志』の考察 第264話「南方指掌図(なんぽうししょうず)」
  • 吉川『三国志』の考察 第263話「南蛮行(なんばんこう)」

    数年をかけ、蜀(しょく)の国力回復に努めた諸葛亮(しょかつりょう)。孟獲(もうかく)を中心とする勢力が南方の諸郡で騒動を起こすと、自ら討伐を行いたいと願い出て劉禅(りゅうぜん)の許しを得る。 諸葛亮は数十名の部将と50余万の大軍を整え、速やかに成都(せいと)を発つ。益州(えきしゅう)南部は気候や地勢が厳しく、行軍は困難を極めた。 第263話の展開とポイント (01)淮河(わいが) 壮図むなしく曹丕(そうひ)が引き揚げてから数日後、淮河一帯を眺めると、縹渺(ひょうびょう)として見渡す限りのものは、焼け野原となった両岸の蘆(アシ)や萱(カヤ)と、燃え沈んだ巨船や小艇の残骸と、油まじりの水面に漂う魏兵(ぎへい)の死骸だけ。 実にこのときの魏の損害は、かつて曹操(そうそう)時代に受けた赤壁(せきへき)の大敗にも劣らないものであった。 ことに人的損傷は全軍の3分の1以上に及んだともいわれ、航行不能に

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  • 吉川『三国志』の考察 第262話「淮河の水上戦(わいがのすいじょうせん)」

    第262話の展開とポイント (01)徐盛の営 孫権(そんけん)にとって、甥の孫韶(そんしょう)は義理ある兄の子であり、また兄の家である兪氏(ゆし)の相続人でもあった。彼が死罪になれば、兄の家が絶えることになる。 ★前の第261話(03)から引き続き、徐盛の営がどこにあったのかわからない。 ★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「『三国志』(呉書〈ごしょ〉・宗室伝〈そうしつでん〉)によれば、孫策(そんさく)にかわいがられて孫の姓を与えられたのは、孫韶の叔父の孫河(そんか)である」とあった。また「『三国志演義』(第82回)に登場する孫桓(そんかん)はこの孫河の息子であり、したがって孫韶の従兄弟にあたる」ともあった。 なお井波『三国志演義(5)』(第86回)では、孫権が徐盛に「この子(孫韶)はもとの姓を兪氏というが、亡兄(孫策)が非常にかわいがって孫

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  • 吉川『三国志』の考察 第261話「建艦総力(けんかんそうりょく)」

    曹丕(そうひ)は、呉(ご)が蜀(しょく)と同盟を結んだ事実が明らかになるや激怒し、ただちに大軍を南下させると言いだす。そして司馬懿(しばい)の進言を容れ、総力を挙げて軍船の建造に取りかかるよう命じた。 黄初(こうしょ)5(224)年8月、曹丕は自ら3千隻を超える大艦隊をひきい、呉の建業(けんぎょう)へ向かう。 第261話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう)? このところ魏(ぎ)では、ふたりの重臣を相次いで失った。大司馬(だいしば)の曹仁(そうじん)と(太尉〈たいい〉の)賈詡(かく)の病死。いずれも大きな国家的損失である。 ★史実の曹仁は魏の黄初4(223)年3月に、賈詡も同年6月に、それぞれ死去した。 初め曹丕は、侍中(じちゅう)の辛毘(しんび。辛毗)から、呉が蜀と同盟を結んだと聞いても当にしなかった。 しかし次々と届く報告から事実だとわかると、怒った曹丕は、ただちに大軍を南下させ

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  • 吉川『三国志』の考察 第260話「蜀呉修交(しょくごしゅうこう)」

    劉備(りゅうび)の死を聞いた曹丕(そうひ)は、司馬懿(しばい)の献策を容れ、五路の大軍を動かして蜀(しょく)の混乱に乗じようとする。 ところが、劉禅(りゅうぜん)の頼みとする諸葛亮(しょかつりょう)は朝廷に姿を見せず、丞相府(じょうしょうふ... まず遼東勢(りょうとうぜい)は、西平関(せいへいかん)を境として蜀の馬超(ばちょう)に撃退されている模様。 ★西平関について『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注には、「(西平関は)虚構の関名」との指摘があった。 南蛮勢(なんばんぜい)は、益州(えきしゅう)の南方で蜀軍の擬兵(敵を欺くための偽りの兵。疑兵)の計に遭って壊乱。上庸(じょうよう)の孟達(もうたつ)は噓か当か病と称して動かず。 中軍の曹真(そうしん)も敵の趙雲(ちょううん)に要害を占められ、陽平関(ようへいかん)を退き、さらに斜谷(やこく)からも退き

    吉川『三国志』の考察 第260話「蜀呉修交(しょくごしゅうこう)」
  • 吉川『三国志』の考察 第259話「魚紋(ぎょもん)」

    劉備(りゅうび)の死を聞いた曹丕(そうひ)は、司馬懿(しばい)の献策を容れ、五路の大軍を動かして蜀(しょく)の混乱に乗じようとする。 ところが、劉禅(りゅうぜん)の頼みとする諸葛亮(しょかつりょう)は朝廷に姿を見せず、丞相府(じょうしょうふ)に籠もって池の魚を眺め続けていた。 第259話の展開とポイント (01)洛陽(らくよう)? 劉備の死は、影響するところ大きかった。蜀帝崩ずと聞こえて、誰よりも喜んだのは魏(ぎ)の曹丕。 ★蜀や呉(ご)に比べ、魏の曹丕の居所に触れないことが多いのが気になる。このときもどこにいたのかよくわからず。おそらく洛陽だろう。 曹丕は、この機会に大軍を出せば、一鼓して成都(せいと)も陥せるのではないかと群臣に諮る。 しかし賈詡(かく)は、「孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)がおりますよ」と言わぬばかりに、その軽挙に固く反対した。 すると、侍側から司馬懿が立って言う。

    吉川『三国志』の考察 第259話「魚紋(ぎょもん)」